「浦上則宗」の版間の差分

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政則は福岡城の救援に浦上則景・[[宇野政秀]]らを派遣する一方で自身は[[但馬国|但馬]]の山名を叩くべく[[真弓峠]]に出陣する。しかし、政則は真弓峠での戦で[[山名政豊]]の軍勢に返り討ちに会い、[[姫路]]へと逃げ帰った。この報を聞いた則景と宇野政秀も播磨防衛のために兵を返してしまったので結局、翌文明16年([[1484年]])の1月には福岡城は松田・山名の軍勢の手に落ちてしまい、更に政則の軍勢を破った但馬の山名勢もこれを機と見て播磨へとなだれ込むという事態に陥る。
 
事を重く見た則宗は1月の中旬に京を立ち、急ぎ播磨へと下向すると政則に失望した国人領主の多くが則宗の元に馳せ参じ、政則は[[和泉国|和泉]]の[[堺市|堺]]へと出奔した。ここに赤松氏の実権を掌握した則宗は[[小寺則職 (室町時代)|小寺則職]]らと会談して政則を廃し、赤松氏一門である[[有馬則秀]]の子、慶寿丸(のちの[[有馬澄則]])赤松氏宗家の家督を継がせる事を画策して幕府にもこれを承認させようとしたが2月20日に申請は却下され<ref>『大乗院寺社雑事記』。「今度之有馬之息総領職御判事ハ、謀書之御判也」とある。</ref>、これによって有馬右京亮が山名に寝返り、赤松一族の在田、広岡氏が新たな赤松家当主を擁立する事を目論むなど播磨国衆が空中分解してしまい、より混迷は深まった。則宗を中心とした赤松方は2月に松田元成を討つ事に成功していたものの、国衆が分裂した状態では形勢は変えられず以後は敗戦を重ね、やむなく一旦領地を捨てて上洛をした為に播磨は山名氏に奪われてしまう。
 
この状況を打破する為にとりあえずは内輪での揉め事を解決する事が先決と考えた則宗は8代将軍[[足利義政]]の仲介で政則と和解し、播磨奪回に向けての体勢を立て直す。その後、文明17年([[1485年]])の戦では息子の則景、則国(この時、死亡していないとの説も)を失うなどしたものの山名・松田連合を相手に戦局を優位に進め、東播磨を制圧し西播磨に陣を張る山名軍と対峙。[[長享]]2年([[1488年]])7月に[[浦上宗助]]が福岡城に入城し山名政豊が但馬に退去するまで長きに渡る抗争となった。