「レヒフェルトの戦い」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Poohpooh817 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
森園千歳 (会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
27行目:
同年、[[8月10日]]、オットー1世率る親征軍が到着し、[[ドナウ川]]支流[[レヒ川]]流域の[[レヒフェルト]](Lechfeld)において翌2日間にわたる激戦を交えた。
 
そのとき、オットー1世の兵力はおよそ8千人で、対するタクショニュ率いるマジャル軍は1万7千人と、兵力では2倍以上の差があり、実際にオットー大帝は多勢のマジャル軍によって窮地に陥った。しかし、前々年の[[953年]]に自身に対して反乱を起こし、謹慎を命じられた女婿で[[ロレーヌ公|ロートリンゲン大公]]の[[コンラート (ロートリンゲン)|コンラート赤毛公]]([[東フランク王国|東フランク王]][[アルヌルフ (東フランク王)|アルヌルフ]]の末裔、[[ザーリアー朝]]の中興の祖)が岳父の危機の報を聞いて救援に駆け付けたため、重騎兵で構成された神聖ローマ帝国軍は勢いを盛り返し、軽騎兵で構成されたマジャル軍を撃退させ、タクショニュはハンガリーに撤退した。
 
その結果、コンラート赤毛公はこの戦いで戦死したが、以後からアールパード家のマジャル人の侵入はなくなり、コンラート赤毛公の働きもあり、オットー1世の威信も高まり、[[ザクセン朝]]の王権確立の重要な一因となった。