「カール6世 (神聖ローマ皇帝)」の版間の差分

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ハプスブルク家ではそれまで所領の分割相続が行なわれ、家領の統治の一体性が損なわれてきた。そのためカール6世は[[1713年]]、[[国事詔書]]を出して領土の分割禁止と長子相続を決定した。この政策で全領土の支配層及び諸国の承認を求め、ハンガリーは貴族の特権を承認、ドイツ諸侯は[[1732年]]に承認、イギリスは東インド会社の解散と引き換えに[[1731年]]に、フランスは[[1733年]]から[[1735年]]の[[ポーランド継承戦争]]で[[ロレーヌ公国]]を手放すことで承認を取り付けた。
 
しかし妃との間にはなかなか子に恵まれず、ありとあらゆる治療を試み、ついに[[1716年]]にカール6世の唯一の男児レオポルトが誕生するが1歳に満たずに夭折した。その後は女児しか誕生せず、長女のマリア・テレジアを後継者にするしかなくなった。このため[[1724年]]、再び国事詔書を出してマリア・テレジアを家領の相続者に定めた<ref>成瀬、P24P25 - P25P26、南塚、P134 - P138、マッケイ、P193 - P221、</ref>。
 
内政においては重商政策を採用して財政を潤わした。また、自身が文化人でもあったことから音楽・建築・美術を保護したが、晩年にも対外戦争は続けられ東インド会社の解散などで財政は悪化した。ポーランド継承戦争でロレーヌの放棄と引き換えに[[ロンバルディア]]を得たが、スペインにシチリアを奪われた(代わりに[[パルマ公国]]を獲得)。[[1737年]]にオスマン帝国の再度の戦争に敗れてベオグラードを奪還され領土は縮小した。