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'''淵辺 義博'''(ふちべ よしひろ、ふちよしひろ、生年不詳 - [[建武 (日本)|建武]]2年([[1335年]])?)は、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[武将]]。現在の[[神奈川県]][[相模原市]][[中央区 (相模原市)|中央区]]淵野辺周辺の[[地頭]]で、[[足利直義]]の家臣。通称は[[伊賀]]守。
 
==生涯==
[[元弘]]3年/[[正慶]]2年([[1333年]])、[[足利尊氏]]や[[新田義貞]]らによって[[鎌倉幕府]]が滅び、[[後醍醐天皇]]が[[建武の新政]]を開始する。建武政権では、[[関東]]支配のため[[鎌倉将軍府]]が置かれており、足利尊氏の弟の[[足利直義]]が執権を務めていた。淵辺義博は直義の配下として[[鎌倉]]にあった。
[[建武 (日本)|建武]]元年([[1334年]])冬、後醍醐天皇の皇子[[護良親王]]が父天皇と不和となり、[[皇位簒奪]]を企てた疑いをかけられて捕縛され、鎌倉の直義の元に幽閉される。翌[[建武 (日本)|建武]]2年([[1335年]])7月、旧鎌倉幕府第14代[[執権]]で最後の[[得宗]]であった[[北条高時]]の遺児[[北条時行]]が、[[中先代の乱]]と呼ばれる反乱を起こす。直義は、時行の軍勢が強勢で鎌倉を支えきれないと見て、[[駿河国]]へ落ち延びることを決断する。護良親王が時行に[[]]印として奉じられることを恐れた直義は、鎌倉の[[東光寺]]に幽閉されていた親王の殺害を義博に命じる。[[古典]]「[[太平記]]」によれば、義博は、親王が幽閉されていた暗い牢の中で親王に[[刀]]の鋒を噛み折られるなど苦戦するが、格闘の末にその[[]]を取り、った。外へ出て首を確認してみると、首はまるで生きているように両眼を見開いたまま自分をにらみつけていたので、義博は恐ろしくなって「このような首は主君に見せないものだ」と[[中国]]の[[故事]]をふまえて考え、近くの藪の中に首を捨て、逃げるように直義に合流してその場を立ち去ったというされる。([[明治維新]]後に東光寺跡に建てられた[[鎌倉宮]]の境内には、「御構廟(おかまえどころ)」と伝わる竹薮がある)。
 
[[建武 (日本)|建武]]元年([[1334年]])冬、後醍醐天皇の皇子[[護良親王]]が父天皇と不和となり、皇位簒奪を企てた疑いをかけられて捕縛され、鎌倉の直義の元に幽閉される。翌[[建武 (日本)|建武]]2年([[1335年]])7月、旧鎌倉幕府第14代[[執権]]で最後の[[得宗]]であった[[北条高時]]の遺児[[北条時行]]が、[[中先代の乱]]と呼ばれる反乱を起こす。直義は、時行の軍勢が強勢で鎌倉を支えきれないと見て、[[駿河国]]へ落ち延びることを決断する。護良親王が時行に旗印として奉じられることを恐れた直義は、鎌倉の東光寺に幽閉されていた親王の殺害を義博に命じる。古典「[[太平記]]」によれば、義博は、親王が幽閉されていた暗い牢の中で格闘の末にその首を取り、外へ出て首を確認してみると、首はまるで生きているように両眼を見開いたまま自分をにらみつけていたので、義博は恐ろしくなって近くの藪の中に首を捨て、逃げるように直義に合流したという([[明治維新]]後に東光寺跡に建てられた[[鎌倉宮]]の境内には、「御構廟(おかまえどころ)」と伝わる竹薮がある)。
 
鎌倉を占領した時行は、逃げる直義を追撃し、[[駿河国]]手越河原で直義と合戦に及ぶ。「[[難太平記]]」によれば、合戦では直義は時行の軍勢に追い詰められ、義博がその身代わりとなって討死する間にやっとのことで逃れた、と伝えられている(ちなみに、「[[梅松論]]」によれば、直義は時行軍を撃退したことになっている)。