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上記に見た王朝国家体制のあり方に、11世紀中期頃から変質が見られるようになった。この時期の王朝国家の変質を示す指標としては、公田官物率法の制定、別名の積極的な設定、所領相論審判権の太政官への集中化などがある。
 
1040年代ごろから太政官によって制定され始めた[[公田官物率法]]は、一国内の税率を固定化する内容を持っており国司に付与された租税収取権に大きな制限を加えた。国司苛政上訴がこの時期までに消滅したのは、公田官物率法が国司の課税権限を抑制し、郡司・田堵負名層との利害関係が解消されたからだとされている。また11世紀中期頃には、それまでの名田より遥かに大規模な名田=[[別名(べちみょう) (日本史)|別名]](べちみょう)が盛んに設定された。別名は、従来の地方行政組織であった郡・郷とは別個に設定され、そのため国-郡-郷という組織体系は崩れ、国の下に郡・郷・別名のほか、[[保]]・条・院などの租税収取単位が同列で併存するようになった。所領相論に係る裁判についても、それまで国・郡に裁判権が認められていたのが、11世紀中期以降は、[[太政官]]のみが裁判することとされた。
 
こうした支配体制を改変する動きは、1040年代を中心とする11世紀中期になって非常に顕著に見られる。これらの動きがどのような性格を持つのかについては、様々な議論があるが、[[坂本賞三]]らはこの時期を王朝国家体制の変質期であるとして、同時期以前を前期王朝国家、以降を後期王朝国家と区分し、鎌倉幕府が成立した12世紀末を後期王朝国家の終期においている。