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[[紀元前43年]]に、ローマの植民市ルグドゥヌムとして建設され、2世紀には[[皇帝属州]][[ガリア・ルグドゥネンシス]]の中心都市としてさかえた。[[カロリング朝]]のもとに司教座がおかれ、後の何世紀もの間、大司教に支配され続けた。[[1245年]]に[[第1リヨン公会議]]、[[1274年]]には[[第2リヨン公会議]]がひらかれた。[[14世紀]]初め[[フランス王国]]に併合され、このころから絹織物の交易の一大中心地として発展した。[[フランス革命]]が始まると、反革命派が反乱を起こし、それを鎮圧した共和国軍が[[リヨンの大虐殺]]を引き起こした。工業化がはじまった19世紀前半にヨーロッパ最大の絹織物・繊維工業都市となった。[[第二次世界大戦]]中は、ドイツ軍に対する[[レジスタンス運動]]の拠点のひとつだった。戦後は北アフリカの旧フランス植民地から多くの移民をむかえた。
 
===日本との関わり===
[[1855年]]に[[スペイン]]で発生した[[蚕]]の病気がヨーロッパ全土に広まり、リヨンの絹織物産業に大打撃を与え、失業者が増大した際、日本の蚕が病いに強いこと、日本でも上質の絹が生産されていることが伝えられ、リヨンから横浜へ生糸と蚕を買い付けに来る人が殺到した。そのため生糸価格は暴騰、粗悪品が出回り、日本の生糸の評判が落ちた。需要拡大のため[[明治政府]]はリヨン近郊出身のフランス人技術者[[ポール・ブリュナー]]を招き、[[1872年]]に[[富岡製糸場]]が造られた。<ref>[http://www.rieb.kobe-u.ac.jp/academic/newsletter/column/pdf/column122.pdf 幕末・明治期の日本で活躍したフランス人(3) (ポール・ブリュナー)]神戸大学経営研究所ニュースレター 2013年1月号</ref>
 
== 政治 ==