「M7 (戦車)」の版間の差分

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1941年1月に'''T7軽戦車(LightTank T7)'''としてロック・アイランド工廠で開発が開始され、基本原型であるT7の[[木型|モックアップ]]が完成するとそれを基に製造方法、エンジンが異なるT7E1からT7E4が設計され、T7E1(リベット構造の試作車だったが、設計中に開発中止)を除く-E2から-E4が試験された結果、1941年12月にT7E2の採用が決定された。
 
当初は主砲には37mm砲が予定され、[[M3中戦車]]のものに似た砲塔が搭載される予定であったが、[[北アフリカ戦線]]における戦訓から37mm砲では[[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ軍]]戦車に対してまったく威力不足である、とされたため、試作車の製作中に主砲は57mm T2([[イギリス]]の[[オードナンス QF 6ポンド砲|QF 6 pounder MkIII 57mm戦車砲]]の[[ライセンス生産]]版)に変更されることになった。その後「57mm砲であってもドイツ軍戦車に対しては威力不足であり、陣地攻撃用の砲としても不十分」と判断されたために、更に[[M4中戦車]]と同じM3 75mm戦車砲を搭載するため砲塔が再設計された。M3軽戦車の装甲が「全く不十分」とされたため装甲防御も見直されることになり、最終的には当初14tだった重量は25tにまで増加した。1942年8月に最終試作車が完成、軽戦車から中戦車へと分類が変更され'''M7中戦車(MediumTank M7)'''として制式化された。
M7はインターナショナル・ハーベスター社に対し3,000両が発注され、1942年12月から生産が開始されたが、機甲軍が「M4中戦車と比較して特に優れている点が無く、2種類の中戦車を並行して装備するのは生産・運用の現場を混乱させるだけである」として配備に反対し、陸軍管理局も同様の見解を示したため、1943年2月に発注が取り消され、既に注された30両のうち7両(一説には13両)が生産されたのみで生産は終了し、軍に引き渡された車両もいくつかのテストに用いられたのみに終わり、実戦部隊への配備はなされなかった。
 
結果として中戦車となってしまったものの、本車は基本的には軽戦車であり、当初から中戦車として開発され既に量産が開始されていたM4中戦車と比較すると装甲が薄く、主砲に対して車体が小型過ぎて車内レイアウトその他に余裕のない車両だった。軽戦車としては車重に比べ懸架装置を始めとした走行装置の性能とエンジンの出力が不足しており、機動力に欠けていた。機動力不足を補おうとフォード V8エンジンを搭載する改良型、M7E1の開発が行われ、更に走行装置を改善した改良型が計画されたが、生産発注の取消に従い開発は中止された。</br>
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M7中戦車は鋳造製の砲塔と車体を持ち、砲塔、車体共に良好な[[避弾経始]]を持つ。全体の構成は当時並行して開発されていたT20中戦車に類似している。乗員は車長(無線手兼任)、砲手、装填手、操縦手、副操縦手の5名である。
 
車体は前部に操縦席、中央部に戦闘室(砲塔)を配し後部に機関室という標準的なもので、車体上部は鋳造による一体成型である。前部左側に操縦手席、変速機を挟んで右側に副操縦手席があり、片開き式のハッチの天面に潜望鏡を備える他、前面には小型の開閉式バイザーブロックがある。車体前面右側には車体機銃として[[ブローニングM1919重機関銃|ブローニング M1919A4 7.62mm機関銃]]のマウントを装備し、副操縦手が銃手を兼任する。戦闘室の4隅にはベンチレータがそれぞれ装備されている。車体前面下部中央部はボルトで留められて取り外せるようになっており、変速機の整備はこの部分を取り外して行う。鋳造の車体上面後部は車体下部に大きく覆いかぶさるような形になっており、排気管はこの内側に配置されていた。
 
エンジンはR975C1もしくはEC2ガソリンエンジン(350馬力)、のちにコンチネンタルR975EC2/C1空冷星形9気筒ガソリン(350馬力)で、搭載方法を工夫して車体の全高を抑えている。燃料タンクの容量は522リットル。整地路面における最高速度は50km/h、最大航続距離は160kmであった。