「小唄勝太郎」の版間の差分

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==経歴==
[[1904年]](明治37年)、[[新潟県]][[中蒲原郡]][[沼垂町]](現在の[[新潟市]][[中央区 (新潟市)|中央区]])生まれ。幼い頃から親戚の料理屋亭「鶴善」で手伝いをする傍ら、知らずと身についた小唄が評判となり、15歳で内芸者となる。自身が好きだった[[清元節|清元]]の師匠になるべく、大正末期に上京。東京の葭町(現在の[[中央区 (東京都)|中央区]][[日本橋人形町]]に籍を置き、勝太郎を名乗る。<br>折りしも、レコード産業の黎明期と重なり、同じ葭町の[[藤本二三吉]]が『浪花小唄』や『祇園小唄』の大ヒットを飛ばすと、愛くるしい笑顔と美声で評判であった勝太郎にも声がかかり、[[オデオンレコード]]で初吹き込み。<br>[[1931年]](昭和6年)、[[日本ビクター]]と正式な契約を結び、レコード歌手としてデビューする。
 
[[1932年]](昭和7年)、[[銀座の柳]]植樹記念として作られた『柳の雨』が、A面の[[四家文子]]が歌う『銀座の柳』とともに大ヒット。葭町勝太郎のヒット作第1号となる。<br>同年の大晦日、新進作曲家の[[佐々木俊一]]が作曲した『[[島の娘]]』が放送されると、聴取者から大反響を呼び、翌[[1933年]](昭和8年)に発売されたレコードは発売から3ヶ月で35万枚を売る未曾有の大ヒット作となった。<br>当時、著名な音楽評論家が「『島の娘』より、ベートーベンの方が好きだという人がいるとしたら、その人は日本人ではなくドイツ人である。」と絶賛したほどであった。歌いだしが「ハァー」と始まる『島の娘』のヒットを受けて、いわゆる「ハァ小唄」と言われる流行歌が次々と世に出ることとなる。
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戦時中も勝太郎の活躍は続き、[[1942年]](昭和17年)に発売された『明日はお立ちか』は、放送局にリクエストの電話が掛かってくるほどの大反響を呼び、久々の大ヒットとなった。<br>軍需工場の慰問などに忙しい日々を送っていた勝太郎であったが、内地で終戦を迎える。<br>[[1946年]](昭和21年)、コロムビアに移籍。[[古賀政男|古賀メロディー]]『伊豆の七島』、親交の深かった歌舞伎俳優・[[市村羽左衛門]]を偲ぶ『橘屋』などをレコーディングするが、[[1948年]](昭和23年)には[[テイチクエンタテインメント|テイチク]]に移籍した。映画主題歌『大島情話』がヒット。<br>[[1950年]](昭和25年)には親善使節として日本の芸能人としては戦後初めて、[[渡辺はま子]]、三味線けい子らと渡米し、[[ハワイ]]、[[ロサンゼルス]]、[[サンフランシスコ]]と、現地の[[日系人]]に『東京音頭』の歌手として大人気を博す。さらに、[[東海林太郎]]らとともに[[ブラジル]]へも赴き、こちらでも日系人の熱烈な歓迎を受けている。
 
[[1961年]](昭和36年)、設立間もない[[EMIミュージック・ジャパン|東芝]]に移籍。主に民謡を中心にレコーディング活動を続けた。<br>昭和40年代の[[懐メロ]]ブームには欠かせない存在となり、[[テレビ東京|東京12チャンネル]]の「なつかしの歌声」には常連のメンバーで、死の直前まで出演している。<br>たゆまぬ精進が認められ、[[1971年]](昭和46年)、[[紫綬褒章]]受章。さらに[[1974年]](昭和49年)には、[[勲等|勲四等]][[宝冠章]]を受章。<br>古巣のビクターで『島の娘』や『東京音頭』など往年のヒット曲を再レコーディングするなど、積極的に活動していたが、[[肺癌]]のため同年6月、東京都[[府中市]]の自宅で69年の生涯を閉じた。
 
[[Image:KoutaKatsutaroMonument.jpg|200px|right|thumb|小唄勝太郎顕彰碑]]
勝太郎生誕100年の翌年である[[2005年]](平成17年)、故郷・新潟市中央区沼垂東四丁目の鶴善跡地に「小唄勝太郎顕彰碑」が建立された。
 
==民謡・新民謡の普及の功績==