「エジプト」の版間の差分

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=== 近代から現代 ===
[[ファイル:ModernEgypt, Muhammad Ali by Auguste Couder, BAP 17996.jpg|thumb|180px|rightleft|[[ムハンマド・アリー]]。]]
[[1798年]]、[[フランス]]の[[ナポレオン・ボナパルト]]による[[エジプト・シリア戦役|エジプト遠征]]をきっかけにエジプトは[[近代国家]]形成の時代を迎える。フランス軍撤退後、混乱を収拾して権力を掌握したのはオスマン帝国が派遣した[[アルバニア人]]部隊の隊長としてエジプトにやってきた軍人、[[ムハンマド・アリー]]であった。彼は実力によってエジプト総督に就任すると、マムルークを打倒して総督による中央集権化を打ち立て、[[経済]]・[[軍事]]の近代化を進めて、エジプトをオスマン帝国から半ば独立させることに成功し、アルバニア系ムハンマド・アリー家による世襲政権を打ち立てた([[ムハンマド・アリー朝]])。
 
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== 地理 ==
{{Main2|詳細は{{仮リンク|エジプトの地理|en|Geography of Egypt}}}}
[[ファイル:S F-E-CAMERON 2006-10-EGYPT-LUXOR-0439.JPG|thumb|[[ナイル川]]]]
[[ファイル:Egypt Topography.png|thumb|200px]]
[[アフリカ]]北東隅に位置し、面積1,002,450平方キロメートルで世界で30番目の大きさである。国土の90%は砂漠で、ナイル川の西側には[[サハラ砂漠]]の一部である西部砂漠([[リビア砂漠]])、東側には[[紅海]]と[[スエズ湾]]に接する東部砂漠(シャルキーヤ砂漠)がある。西部砂漠には海抜0m以下という地域が多く、面積1万8000km²の広さをもつ[[カッターラ低地]]は海面より133mも低く、[[ジブチ]]の[[アッサル湖]]に次いで[[アフリカ大陸]]で2番目に低い地点である。[[シナイ半島]]の北部は砂漠、南部は山地になっており、エジプト最高峰の[[カテリーナ山]] (2637m) や、[[旧約聖書]]で[[モーセ]]が[[モーセの十戒|十戒]]をさずかったといわれる[[シナイ山]] (2285m) がある。シナイ半島とナイル河谷との間は[[スエズ湾]]が大きく湾入して細くくびれており、ここが[[アフリカ大陸]]と[[ユーラシア大陸]]の境目とされている。この細い部分は低地であるため、スエズ運河が建設され、紅海と地中海、ひいてはヨーロッパとアジアを結ぶ大動脈となっている。
[[ファイル:S F-E-CAMERON 2006-10-EGYPT-LUXOR-0439.JPG|thumb|left|200px|[[ナイル川]]]]
 
[[ナイル川]]は南隣の[[スーダン]]で[[白ナイル川]]と[[青ナイル川]]が合流し、エジプト国内を南北1545kmにもわたって北上し、河口で広大な[[三角州|デルタ]]を形成して[[地中海]]にそそぐ。[[アスワン]]以北は人口稠密な河谷が続くが、幅は5kmほどとさほど広くない。上エジプト中部のキーナでの湾曲以降はやや幅が広がり<ref>「朝倉世界地理講座 アフリカⅠ」初版所収「ナイル川の自然形態」春山成子、2007年4月10日(朝倉書店)p198</ref>、[[アシュート]]近辺で分かれた支流が[[ファイユーム]]近郊の[[カールーン湖]]へと流れ込む。この支流によって、カールーン湖近辺は肥沃なオアシスを形成している。一方本流は、[[カイロ]]近辺で典型的な扇状三角州となる'''[[ナイル・デルタ]]'''は、地中海にむかって約250kmも広がっている。かつてはナイル川によって運ばれる土で、デルタ地域は国内で最も肥沃な土地だったが、アスワン・ハイ・ダムによってナイル川の水量が減少したため、地中海から逆に塩水が入りこむようになった。ナイル河谷は、古くから[[下エジプト]]と[[上エジプト]]という、カイロを境にした2つの地域に分けられている。前者はデルタ地域をさし、後者はカイロから上流の谷をさしている。ナイル河谷は、世界でも最も[[人口密度]]の高い地域の一つである。
 
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== 経済 ==
{{Main2|詳細は{{仮リンク|エジプトの経済|en|Economy of Egypt}}}}
[[ファイル:View from Cairo Tower 31march2007.jpg|thumb|left|220px|カイロはビジネス、文化、政治などを総合評価した[[世界都市#世界と指数|世界都市格付け]]でアフリカ第1位の都市と評価された<ref>[http://www.atkearney.com/images/global/pdf/2012_Global_Cities_Index_and_Emerging_Cities_Outlook-FINAL3.pdf 2012 Global Cities Index and Emerging Cities Outlook] (2012年4月公表)</ref>。]]
2010年のエジプトの[[GDP]]は約2168億ドル(約17兆円)<ref>[http://www.imf.org/external/index.htm IMF]</ref>でありアフリカでは屈指の経済規模であり[[BRICs]]の次に経済発展が期待できると言われている[[NEXT11]]の一国にも数えられている。しかし、[[スエズ運河]]収入と[[観光産業]]収入に依存するところが大きく、政情に左右されやすい。かつては[[綿花]]の世界的生産地であり、ナイル川のもたらす肥沃な土壌とあいまって農業が重要な役割を果たしていた。しかし、通年灌漑の導入によってナイルの洪水に頼ることが少なくなった上、[[アスワン・ハイ・ダム]]の建設によって上流からの土壌がせき止められるようになった、そのため、ダムによる水位コントロールによって農地が大幅に拡大し、農業生産高が格段に上がったにもかかわらず、[[肥料]]の集中投入などが必要になったためにコストが増大し、近年代表的な農業製品である綿製品は価格競争において後塵を拝している。[[1970年代]]に農業の機械化及び各種生産業における機械への転換により、労働力の過剰供給が見受けられるようになり、都市部に流出し、治安・衛生の悪化及び社会政策費の増大を招くも、80年代には、[[石油]]産業従事者の増大に伴い、農業において労働力不足が顕著となる。この為綿花及び綿製品の価格上昇を招き、国際競争力を失った。1990年代から、[[国際通貨基金|IMF]]の支援を受け経済成長率5%を達成するがまた、社会福祉政策の低所得者向け補助の増大及び失業率10%前後と支出の増大に加え、資源に乏しく食料も輸入に頼るため、2004年には物価上昇率10%に達するなどの構造的問題を抱えている。現状、中小企業育成による国際競争力の強化、雇用創生に取り組んでいるも結果が出ていない。[[2004年]]のナズィーフ内閣が成立後は、国営企業の民営化及び税制改革に取り組んでいる。[[2008年]]、世界的な食料高騰によるデモが発生した。
 
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== 国民 ==
{{Main2|詳細は{{仮リンク|エジプトの人口統計|en|Demographics of Egypt}}}}
[[ファイル:Cairo mosques.jpg|thumb|left|220px|[[カイロ]]の[[モスク]]。]]
=== 人口構成 ===
[[File:Egypt population pyramid 2005.svg|thumb|[[2005年]]の人口ピラミッド。30歳以下の若年層が非常に多く、若者の失業が深刻な問題となっている]]
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== 脚註 ==
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{{Reflist|2}}
 
== 関連項目 ==