「芳賀高名」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
テンプレート付加、本文改変、カテゴリ改変 |
||
1行目:
{{基礎情報 武士
'''芳賀 高名'''(はが たかな、[[正応]]4年([[1291年]]) - [[応安]]5年/[[文中]]元年[[11月30日 (旧暦)|11月30日]]([[1372年]][[12月25日]]))は、[[鎌倉時代]]から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[武将]]。[[宇都宮氏]]の家臣。官位は[[従五位|従五位下]][[兵衛府|左兵衛尉]]。父は[[宇都宮景綱]]の次男で[[芳賀氏]]を継いだ[[芳賀高久]]。子に[[芳賀高貞|高貞]]、[[芳賀高家|高家]](高貞については、実子説と[[宇都宮貞綱]]の子を[[養子]]とした説がある)。[[出家]]後に直山禅可という[[戒名|法名]]を名乗ったことから'''芳賀 禅可'''(はが ぜんか)の別名で知られている。▼
|氏名=芳賀高名
|時代=[[鎌倉時代]]後期 - [[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]
|生誕=[[正応]]4年([[1291年]])
|死没=[[応安]]5年/[[文中]]元年[[11月30日 (旧暦)|11月30日]]([[1372年]][[12月25日]])
|改名=高名→直山禅可([[戒名|法名]])
|別名=
|戒名=
|墓所=
|官位=[[従五位]]下、[[兵衛府|左兵衛尉]]
|主君=[[宇都宮公綱]]→[[宇都宮氏綱|氏綱]]
|父母=父:[[芳賀高久]]
|兄弟='''高名'''、[[岡本富高]]
|妻=
|子='''[[芳賀高貞|高貞]]'''、[[芳賀高家|高家]]
|特記事項=
}}
▲'''芳賀 高名'''(はが たかな
== 生涯 ==
初め[[宇都宮公綱]]に仕えて[[鎌倉幕府]]の[[楠木正成]]追討に参加、[[天王寺の戦い]]・[[千早城の戦い]]での幕府軍の苦戦にかかわらず奮戦して武名を挙げる。公綱は鎌倉幕府滅亡後[[建武の新政|建武政権]]に従い、政権崩壊も[[南朝 (日本)|南朝]]方についていたが、禅可は公綱に対する反発から彼を排除、嫡子[[宇都宮氏綱|氏綱]]を擁立して宇都宮氏を[[北朝 (日本)|北朝]]方に転じさせる。このため、南朝側の反感を買って[[暦応]]4年/[[興国]]2年([[1341年]])には居城の[[飛山城]]を攻め落とされている。だが、[[観応]]2年/[[正平 (日本)|正平]]6年([[1351年]])の[[薩た峠の戦い (南北朝時代)|薩埵
鎌倉時代以来、一貫して[[小山氏]]によって[[下野国|下野]]守護を独占されていた宇都宮氏にとって初めての守護補任であり、その功労者である禅可は両国の事実上の[[守護代]]に任ぜられた(ただし、当時禅可は既に出家していたため、実際には子の高貞・高家が守護代に任ぜられ、父の禅可が実務を執っていたとされている)。両国には復権を狙う[[上杉氏]]・[[新田氏]]の勢力が存在しており、禅可率いる宇都宮軍はそうした勢力の鎮圧に尽力した。また、憲顕に代わって関東執事となった[[畠山国清]]も[[鎌倉府]]の機構を[[入間川御陣]]に移すなどの支援体制を取った。
ところが、[[鎌倉公方]][[足利基氏]]は父・尊氏が没すると、父が討伐対象にした上杉憲顕を復権させるべく働きかけ、[[貞治]]元年/正平17年([[1362年]])に突如
氏綱は上野守護も解任され、基氏による討伐を受けて降伏した。『[[太平記]]』によればこの時、氏綱は「禅可の此間の挙動、全く我同意したる事候はず(禅可の先の行動は私は全く同意した覚えはない)」と述べたとされている。憲顕の復権という目的を達成した基氏はそれ以上氏綱の責任を追及することはなく、禅可が宇都宮氏のために責任を負う形で退くことになった。
20 ⟶ 38行目:
== 関連項目 ==
*[[苦林古墳群]]
▲*[[芳賀氏]]
{{DEFAULTSORT:はか たかな}}
[[Category:芳賀氏|たかな]]
[[Category:
[[Category:室町・安土桃山時代の武士]]
[[Category:下野国の人物]]
[[Category:1291年生]]
|