「空手道」の版間の差分

==== 唐手(トゥーディー)の時代 ====
[[ファイル:Matsumura_Precepts.jpg|thumb|340px|'''松村宗棍遺訓'''。武芸を三段階に分けて、型偏重(学士の武芸)を戒め、臨機応変の大切さを説き、武芸の目的はおのれのためではなく、国王や両親を守る(忠孝)ためにある(武道の武芸)と説く。]]
19世紀になると、唐手という名称が使われ出す。しかし、唐手と「手」の相違は判然としない。明治初頭の頃まで、唐手以前の「手」は特に'''沖縄手'''(おきなわて、ウチナーディー)と呼ばれ、唐手とは区別されていたとされるが<ref>船越義珍『愛蔵版 空手道一路』95頁参照。</ref>、両者の間にどのような相違があったのかは不明である。19世紀以降の唐手の使い手としては、[[首里]]では佐久川寛賀とその弟子の[[松村宗棍]]、盛島親方、油屋山城、泊では宇久嘉隆、照屋規箴、那覇では[[湖城以正]]、長浜筑登之親雲上などである。この中でも、特に松村宗棍は琉球王国時代の最も偉大な唐手家の一人と言われている。琉球国王の御側守役(侍従武官)の職にあり、国王の武術指南役もつとめたという
 
また、この頃から[[薩摩藩|薩摩]]を経由して伝来した[[日本武術]]も、唐手の発展に影響を及ぼしたとされる。最初は薩摩の在番役人から[[示現流|示現流剣術]]やその分派の[[剣術]]を修業する琉球士族の一部から伝わったものと思われるが、[[18世紀]]には薩摩藩士を介さず琉球士族から示現流剣術を学ぶ者もあった<ref>本部直樹「「阿嘉直識遺言書」に見る18世紀の琉球の諸武術―示現流、柔術、からむとう―」(『日本武道学会第42回大会研究発表抄録』日本武道学会、2009年)</ref>。また、松村宗棍のように、薩摩に渡って示現流を修業してくる者もいた。空手の「[[巻藁]]突き」は、示現流の「立木打ち」からヒントを得たとも言われている<ref>岩井虎伯『本部朝基と琉球カラテ』愛隆堂、平成14年、146頁参照。</ref>。また、空手の一撃必殺を追求する理念にも、示現流の影響があるという説もある{{誰2|date=2012年7月}}
この中でも、特に松村宗棍は「琉球の[[宮本武蔵]]」とも言われ、琉球王国時代の最も偉大な空手家と言われている{{誰2|date=2009年5月}}。琉球国王の御側守役(侍従武官)の職にあり、国王の武術指南役もつとめたと伝えられる。
 
また、この頃から、[[薩摩藩|薩摩]]を経由して伝来した[[日本武術]]も、唐手の発展に影響を及ぼしたとされる。最初は薩摩の在番役人から[[示現流|示現流剣術]]やその分派の[[剣術]]を修業する琉球士族の一部から伝わったものと思われるが、[[18世紀]]には薩摩藩士を介さず琉球士族から示現流剣術を学ぶ者もあった<ref>本部直樹「「阿嘉直識遺言書」に見る18世紀の琉球の諸武術―示現流、柔術、からむとう―」(『日本武道学会第42回大会研究発表抄録』日本武道学会、2009年)</ref>。また、松村宗棍のように、薩摩に渡って示現流を修業してくる者もいた。空手の「[[巻藁]]突き」は、示現流の「立木打ち」からヒントを得たとも言われている<ref>岩井虎伯『本部朝基と琉球カラテ』愛隆堂、平成14年、146頁参照。</ref>。また、空手の一撃必殺を追求する理念にも、示現流の影響があるという説もある{{誰2|date=2012年7月}}
 
さて、空手に流派が登場するのは、空手が本土に伝えられた大正末期以降である。それ以前は、空手の盛んだった地域名から、単に[[首里手]]、[[泊手]]、[[那覇手]]の三つに、大まかに分類されていたにすぎない。もっとも首里士族の中には首里手以外に、泊手や那覇手も同時に習っていた例もあり、この分類もあまり厳密に受け取るべきではないと言えよう。
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