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{{main|シチリアの晩祷}}
<!---More background is probably necessary to explain the complex situation which existed in the Mediterranean at the time, i.e. Byzantines, Latin Empire, Treaty of Viterbo, papacy, Aragonese, etc.--->
[[シチリア]]は、[[12世紀]]初頭に[[ルッジェーロ2世]]がイタリア本土の豪族を撃破し、[[教皇|ローマ教皇]]によってから[[ナポリとシチリアの君主一覧|シチリア]]に選出さを授けられて以来、[[南イタリア]]をも含んだ[[シチリア王国]]の一部を成していた。その統治は[[神聖ローマ皇帝]]を兼ねた[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フェデリーコ2世(フリードリヒ2世)]]によって引き継がれたものの、その庶子である[[マンフレーディ]]は[[1266年]]に、[[カルロ1世 (シチリア王)|アンジュー伯シャルル(シャルル1世、シャルル・ダンジュー)]]率いる[[フランス王国|フランス]]の侵略を受けて追われた。フランスによる統治はじきすぐに、抑圧的で残酷な要素を帯びるようになった。
 
復活最後の月曜日{{enlink|Easter Monday|a=on}}である[[1282年]] [[3月30日]]、[[パレルモ]]郊外に位置する聖霊教会{{enlink|Chiesa del Santo Spirito||it|a=on}}にて夕べの祈り([[晩課]])の際に、シチリア人女性がフランス人男性から嫌がらせを受けた。嫌がらせの内実がいかなるものだったのか、そのシチリア人女性とフランス人男性が誰だったかについては、報告によって異なる。
 
このたった一つの出来事がきっかけで、その後6週までわたって続くことになる、4000人にも上るフランス人大量虐殺に至る事態へとなった。この惨劇は、シチリア国王となっていたシャルル・ダンジューとその配下のフランス人による、現地のシチリア人に対する虐政(特にシャルル自身がシチリアを不在にした時に顕著であった)の産物であった。わずかに数人の役人がその目立った善政により命を救われ、シャルルは[[メッシーナ]]を維持することが出来た。しかし、{{仮リンク|教皇代理|en|vicar}}オルレアンのエルベールの外交上の失敗により, [[4月28日]]にメッシーナで反乱が起きた。エルベールは{{仮リンク|マテグリフォン|en|Mategriffon}}の城に退き、港に繋がれていた[[十字軍]]の艦隊は焼き払われた。
 
[[アラゴン王国連合王国|アラゴン]]の[[ペドロ3世 (アラゴン王)|ペドロ3世大王]]は自身の妃[[コンスタンサ・デ・シシリア|コンスタンサ]]の権利を通してマンフレーディの後継者であり、イタリアの医師である{{仮リンク|ジョヴァンニ・ダ・プロチダ|it|Giovanni da Procida}}がその代理人として行動していた<ref>Chaytor, H. J. ''A History of Aragon and Catalonia ''. 1933. [http://libro.uca.edu/chaytor/hac7.htm Chapter 7], pp. 102-3.</ref>。ジョヴァンニはマンフレーディに対して忠実に仕えており、{{仮リンク|タリアコッツォの戦い|it|Battaglia di Tagliacozzo}}でシャルルの支配が確定するとアラゴンに亡命した。ジョヴァンニはシチリアへ赴くと、ペドロが有利になるよう不満を煽り立て、それから[[コンスタンティノープル]]に赴いて[[東ローマ帝国|東ローマ]][[東ローマ帝国の皇帝一覧|皇帝]][[ミカエル8世パレオロゴス]]からの支援の確約を取り付けた。ミカエル8世はローマ教皇の許可なしでペドロを支援することに対して拒否を示したことから、ジョヴァンニは[[ローマ]]に赴いて、シャルルが[[南イタリア|メッツォジョールノ]]で台頭することを恐れる教皇[[ニコラウス3世 (ローマ教皇)|ニコラウス3世]]からの同意を得た。ジョヴァンニはそれから[[バルセロナ]]に戻ったが、ニコラウス3世は間もなく死去し、フランス人でシャルルの同盟者であったシモン・ド・ブリオンが[[マルティヌス4世 (ローマ教皇)|マルティヌス4世]]として新教皇となった。
 
==アラゴン王国のイタリア侵攻==
[[Image:Arrivo aragonesi.jpg|thumb|360px|[[トラーパニ]]に上陸するアラゴン国王[[ペドロ3世 (アラゴン王)|ペドロ3世]]。]]
晩祷事件の後、シチリア人はすぐにペドロ3世のもとに赴き、フランス人によるいて統治権を譲渡した。ペドロ自らが指揮をとるアラゴン海軍は、現在の[[アルジェリア]]東部に位置する{{仮リンク|コッロ|en|Collo}}に上陸し、そのもとにはシチリア人からの使節が送られてきた。ペドロはシチリア王位につくよう要請され、これを受け入れた。この時、教皇マルティヌス4世はシチリア人共同体を援助することを拒否し、シチリア人反乱者は[[北イタリア]]の[[教皇派と皇帝派|皇帝派]]ともども教皇によって[[破門]]された。
 
十字軍へのを捨てたシャルルは、[[カラブリア]]において自軍を掻き集め、メッシーナ付近に上陸して包囲を開始した。晩祷事件から4ヶ月後の[[8月30日]]、ペドロが[[トラーパニ]]に上陸して即座にパレルモへ進軍し、[[9月4日]]にシチリア人からの臣従の誓いを受けてその古くからの特権を認めた。わずかにパレルモ大司教の不在が戴冠の妨げになっただけであった。シャルルは既にメッシーナを包囲していたが、この時アラゴン軍は初めて彼と出会っている。10月末までにシャルルはシチリア島を立ち退くことを余儀なくされ、それ以来、支配権はイタリア半島本土に限定されることとなった。[[11月18日]]にマルティヌス4世はペドロを破門し、その王を剥奪した。
 
ペドロ3世は自身の優位を強調し、[[1283年]]2月までにカラブリア海岸線の大部分を掌握した。絶望的感情に陥ったシャルルは、ペドロのもとに手紙を送って一騎打ちによる紛争の解決を求めた。ペドロはこれを承諾し、シャルルはフランスに帰国して決闘の同意を取り付けた。両王は6人の騎士を選り抜いて、決闘の場所と日付を取り付けた。決闘は[[ボルドー]]にて[[1月1日]]に行われることなった。双方共に100人の騎士が同行し、[[イングランド王国|イングランド]]国王[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]が審判役を務めることとなったが、エドワードは教皇に注意して決闘にかかわりを持つことを拒絶している<ref>Chaytor, p 104.</ref>。ペドロはジョヴァンニ・ダ・プロチナを自身の代理としてシチリアに残し、アラゴン経由でボルドーへ戻ったが、その際にフランスによる待ち伏せの疑いを避けるため、変装して同都市に入城している。ペドロには護衛がいなかったので、非常に危険な状態でアラゴンに帰った。
 
ペドロとシャルルが決闘による正当性決着を追い求めている間に、カタルーニャの海軍提督である{{仮リンク|ルッジェーロ・ディ・ウリア|it|Ruggiero di Lauria}}はペドロの代理としてイタリアで戦闘を継続していた。ルッジェーロはカラブリア海岸沿いを略奪して、その巨大な海軍の存在感を維持し続けた。シャルル1世はボルドーを去って{{仮リンク|プロヴァンス伯領|fr|Comté de Provence}}に赴き、同地から艦隊を、当時のイタリアにおける自身の王国の首都かつ[[ナポリ・アンジュー朝|王朝]]の支柱となる[[ナポリ]]へ派遣した。ルッジェーロは[[マルタ]]を占領し、同島近くの{{仮リンク|マルタの戦い|ca|Combat de Malta}}で{{仮リンク|アンジュー伯|fr|Comté d'Anjou}}={{仮リンク|プロヴァンス伯|fr|Comté de Provence}}艦隊を撃破した。それからナポリ港外においてシャルル1世の息子で王位継承者である{{仮リンク|サレルノ公|it|Principi di Salerno}}[[カルロ2世 (ナポリ王)|シャルル(2世)]]と引き分けている。ルッジェーロは完全に遠洋に針路をとって、{{仮リンク|ナポリ湾の海戦|ca|Batalla del golf de Nàpols}}でアンジュー海軍を完膚までに破壊した。ルッジェーロはメッシーナにおいてサレルノ公を捕虜とし、42の艦船を拿捕している。シャルル1世はこの時イタリアに到着していたが、それからすぐ後の[[1285年]]に死去した。シャルル1世の後継者であるサレルノ公は虜囚の身であり、他方ペドロ3世も|{{仮リンク|アラゴン十字軍|ca|Croada contra la Corona d'Aragó}}という新たな脅威に対処しなければならなくなったことから、イタリアにおける争いは両陣営の主導者が不在のまま継続することとなった<ref name="Chaytor, p 105">Chaytor, p. 105.</ref>。
 
==アラゴン十字軍==
:{{main|:ca: Croada contra la Corona d'Aragó }}
[[1284年]]にマルティヌス4世は、シャルル1世の甥[[フィリップ3世 (フランス王)|フィリップ3世大胆王]]の四男[[シャルル (ヴァロワ伯)|ヴァロワ伯シャルル]]にアラゴン王国を授けた。この教皇が是認した戦争、すなわち十字軍のことを歴史家のH. J. Chaytor は「ことによると[[カペー朝|カペー家の王権]]によって企てられた最も不正かつ不必要、そして悲惨な目論見である」と叙述している<ref name="Chaytor, p 105"/>。ルッジェーロがいまだ、ペドロ3世が獲得したシチリアを確固たるものにしていた頃、ペドロ自身はシャルル1世と決闘するために密かにフランスに入ったものの、失敗したことからアラゴンに帰国し、シャルルの方は再びイタリアに入って同地で死去している。
 
ペドロ3世は、フランスがアラゴン侵攻を準備していた間、自国の不安な情勢に対処していた。ペドロは[[アルバラシン]]を反逆貴族{{仮リンク|フアン・ヌニェス1世・デ・ララ|es| Juan Núñez I de Lara}}から奪回し、[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]の[[サンチョ4世 (カスティーリャ王)|サンチョ4世勇敢王]]と新たに同盟し、フィリップ3世の次男の[[ナバラ王国|ナバラ]]国王[[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ]]による正面攻撃を防ぐのを試みるため、[[トゥデラ]]を攻撃した 。
 
[[1283年]]にペドロ3世の弟である[[マヨルカ王国|マヨルカ]]国王[[ジャウメ2世 (マヨルカ王)|ジャウメ2世]]はフランス側に加勢して、その[[モンペリエ]]全土の領有権を認めて[[バレアレス諸島]]及びルサリョ([[ルシヨン]])を自由に航行出来るようにした。同時にジャウメ2世は、{{仮リンク|ルサリョ伯領|ca|Comtat del Rosselló}}を継承していたことから、フランスとアラゴンの間に立っていたのである。ペドロ3世はジャウメ2世が若いという理由でその継承に反対したことから、この種の十字軍という形での対抗という顛末を迎えることになった。1284年にフィリップ3世、ヴァロワ伯親子率いる最初の十字軍がルシヨンに入った。その内訳は、16,000人の騎兵、17,000人の弩弓兵、100,000人の歩兵、及び南フランス港の100艘の艦船であった。<ref>Chaytor, p 106.</ref>フランス軍がジャウメ2世を支援したにもかかわらず、現地民はその軍に対して反旗を翻した。{{仮リンク|エルヌ|fr|Elne}}は「ルシヨンの私生児」(bâtard de Roussillon)と呼ばれたヌノ・サンチェス({{enlink|Nunó Sanç I de Rosselló i Cerdanya||ca|a=on|p=off}}, [[1212年]]から[[1242年]]までルシヨン伯であった)の庶子によって果敢に守り抜かれたものの、最終的には屈服し、聖堂は焼き払われて、フランス軍は優位性を保ち続けた。
しかし条約では、戦闘の際にハイメ2世にはシャルル2世に助力することが義務付けられていたことから、ハイメ2世はこれに従う形でカタルーニャから艦隊を送り込み、シチリア沿岸を襲撃してフェデリーコ2世を悩ませた。フェデリーコは即座に攻撃態勢をとって、[[1296年]]にカラブリアに侵攻した。幾つかの塔を包囲し、ナポリの反乱を扇動して[[トスカーナ]]や[[ロンバルディア]]の皇帝派と交渉し、教皇に対抗する[[コロンナ家]]を援助した。
 
ハイメ2世は1295年に締結された条約の遂行と、和平の施行実現に非常に熱心であった。かくしてハイメは、父に仕えた有能な人物であるジョヴァンニとルッジェーロを支援した。[[1299年]][[7月4日]]にハイメはルッジェーロを伴い、自ら艦隊を指揮して{{仮リンク|オルランド岬の海戦|ca|Batalla del cap Orlando}}においてフェデリーコを撃破した。他方、シャルル2世の息子でハイメ2世の娘[[ヨランダ・ダラゴナ|ビオランテ]]と結婚した[[ロベルト1世 (ナポリ王)|ロベルト1世賢明王]]とターラント公フィリッポ1世{{enlink|Filippo I d'Angiò||it|a=on}}は、シチリアに上陸して[[カターニア]]を占領した。フィリッポはトラーパニの包囲に移ったものの、{{仮リンク|フラコナラの戦い|ca|Batalla de Falconara}}でフェデリーコに敗北して捕虜となった。カラブリアにおいて、フェデリーコ2世は自身の継承権を高めた。[[1300年]][[6月14日]]にルッジェーロは{{仮リンク|ポンサの戦い|ca|Batalla de Ponça (1300)}}でシチリア軍を撃破し、フェデリーコを捕虜とした。
 
[[1302年]]にヴァロワ伯は、教皇ボニファティウス8世の命によりローマへ赴いた後、シチリアに上陸したものの、その軍勢が疫病によって損害を被ったことから、和平を訴えることを余儀なくされた。[[8月19日]]に{{仮リンク|カルタベッロッタの和平|it|Pace di Caltabellotta}}が結ばれ、フェデリーコ2世は「[[トリナクリア]]{{enlink|Regno di Trinacria||it|a=on}}国王」の称号を帯びたシチリア島全土の王として、シャルル2世は「シチリア国王」の称号(多くの歴史家はその置かれた都から「[[ナポリ王国|ナポリ]]国王」と言い表呼び習わしている)を帯びる南イタリア全土の王として、それぞれ認められた。[[1303年]][[5月]]に教皇が条約に批准し、フェデリーコ2世は彼に貢税を払った。また、フェデリーコ2世とシャルル2世の娘[[エレオノーラ・ダンジョ|エレオノーラ]]の結婚が執り行われた。
 
==脚注==
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