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[[Image:Konradin.jpg|thumb|200px|[[マネッセ写本]]の挿絵、コンラディン王]]
'''コッラディーノ'''(Corradino, [[1252年]][[3月25日]] - [[1268年]][[10月29日]])は、[[ホーエンシュタウフェン朝]]の[[シチリア王国|シチリア王]]、[[エルサレム王国|エルサレム]]王(在位:[[1254年]] - [[1258年]])。'''[[コンラート|コンラディン]]'''(コンラーディン・コンラート)とも呼ばれる。
 
父はシチリア王コッラード([[神聖ローマ帝国|神聖ローマ皇帝]][[コンラート4世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート4世]])、母は[[バイエルン大公|バイエルン公]]兼[[ライン宮中伯]][[オットー2世 (バイエルン公)|オットー2世]]の娘エリーザベト。
 
==概要==
1254年、父が没してシチリア王を継いだが[[神聖ローマ皇帝]]は継承できず、[[神聖ローマ帝国]]は[[大空位時代]]を迎えた。幼少であったため、母方の叔父のバイエルン公兼ライン宮中伯[[ルートヴィヒ2世 (バイエルン公)|ルートヴィヒ2世]]に保護された。
 
[[1266年]]、父方の叔父[[マンフレーディ]]が敗死するとイタリアに侵攻し、[[カルロ1世 (シチリア王)|シャルル・ダンジュー]]と戦ったが、[[タリアコッツォの戦い]](1268年8月23日)で敗れる。いったん、皇帝派が多勢いる[[ピサ]]に逃亡しようと試みるが、[[トッレ・アストゥーラ]]にて捕縛され、幽閉された。
 
その後[[ナポリ]]に移され、同世代の親族の[[バーデン (領邦)|バーデン辺境伯]][[フリードリヒ1世 (バーデン=バーデン辺境伯)|フリードリヒ1世]]たち7人と共に[[死刑執行人]][[ドメニコ・プンツォ]]の手によってマルカート広場で斬首刑にされた。斬首刑が行われた場所には後の1351年に[[{{仮リンク|サンタ・クロチェ・アル・マルカート教会]]([[w:|it:|Chiesa di Santa Croce al Mercato]])}}が建てられた。
 
これにより、ホーエンシュタウフェン朝は完全に滅びた。
 
{{先代次代|[[ナポリとシチリアの君主一覧|シチリア王]]|1254年 - 1258年|[[コンラート4世 (神聖ローマ皇帝)|コッラード]]|[[マンフレーディ]]}}
 
{{DEFAULTSORT:こつらていの}}
[[Category:シチリアの君主]]
[[Category:エルサレム国王]]
[[Category:シュヴァーベン公]]
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[[Category:1252年生]]
[[Category:1268年没]]
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