「マウマウ団の乱」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
括弧内の説明的にはこちらのが適切
編集の要約なし
1行目:
'''マウマウ団の乱'''(マウマウだんのらん、英語:Mau Mau Uprising)は、[[イギリス]]の[[植民地]]だった[[ケニア]]([[イギリス領東アフリカ]])で1952年から1960年に起こった[[ナショナリズム|民族主義]]的独立運動。
 
== 名称 ==
ケニア最大民族である[[キクユ族]]を中心とする人々が[[ケニア土地自由軍]]を結成し、[[1952年]]から各地の白人農場、警察署、政府軍用地、親植民地派のケニア人を襲撃した。軍事的にはこの襲撃は失敗に終わったが、結果としてケニア独立を早めることとなった。
 
「'''マウマウ'''」({{lang-en|Mau Mau}})と独立主義運動につけられた名称は、イギリス側からの他称である。「マウマウ」の語源は諸説あるが、
イギリスはこの独立主義運動を「'''マウマウ'''(Mau Mau)」と呼んだが、独立運動側は自分たちのことを「ムインギ(Muingi「運動」)」、ムイグウィタニア(Muigwithania「理解」)、ムマ・ワ・ウィグァノ(Muma wa Uiguano「統一への誓い」)または単に「KCA(Kikuyu Central Association、キクユ中央協会)」と呼んでいた。
 
「マウマウ」の語源は諸説あるが、
* [[ハイエナ]]が食料を漁る際の擬音(2006年版アメリカン・ヘリテージ・ディクショナリーによる)
* 襲撃のあった土地の名から(マウ〜などがよく使われていた)
12 ⟶ 10行目:
* 外に警官が来た場合に「ウマ!ウマ!(外!外!)」と警戒していたことによる。「マウマウ」は「ウマ!ウマ!」の聞き違い。
 
== 歴史 ==
イギリス側は、マウマウ側の掃討に乗り出し、[[ジョモ・ケニヤッタ]]ら[[ケニア・アフリカ民族同盟]](KANU)の指導者は扇動者として裁判に付された。反乱は他の諸民族をも巻き込み、イギリスは正規軍5万人、戦車、爆撃機などを投入しナイロビで2万7千人、農村で107万人の反乱支持者を逮捕してマウマウを山林内に封じ込めた。マウマウは巧みなゲリラ戦で抵抗したが[[1956年]]に指導者の[[デダン・キマジ]]の逮捕により終結。この反乱による死者は白人入植者95人、親植民地派とみなされたアフリカ人1920人、マウマウ側は、11503人だった。イギリス軍は、ケニア植民地予算の4年分に匹敵する巨額の戦費支出を余儀なくされ、これを機にケニアは1963年に独立した。
イギリスはこの独立主義運動ケニア最大民族である[[キクユ族]]「'''マウマウ'''(Mau Mau)」中心呼んだする人々[[ケニア土地自由軍]](KLFA)を結成した。<ref>独立運動側は自分たちのことを「ムインギ(Muingi」([[キクユ語]]: {{lang|ki|Muingi}}、「運動」の意ムイグウィタニア(Muigwithania」([[キクユ語]]: {{lang|ki|Muigwithania}}、「理解」の意)、ムマ・ワ・ウィグァノ(Muma」([[キクユ語]]: {{lang|ki|Muma wa Uiguano}}、「統一への誓い」の意)または単に「KCA(KikuyuKCA」({{lang-en|Kikuyu Central Association}}キクユ中央協会呼んでいた。</ref>
 
ケニア最大民族である[[キクユ族]]を中心とする人々が[[ケニア土地自由軍]]を結成し、[[1952年]]から、KLFAは各地の白人農場、警察署、政府軍用地、親植民地派のケニア人を襲撃した。軍事的にはこの襲撃は失敗に終わったが、結果としてケニア独立を早めることとなった。
 
イギリス側は、マウマウ側の掃討に乗り出し、[[ジョモ・ケニヤッタ]]ら[[ケニア・アフリカ民族同盟]](KANU)の指導者は扇動者として裁判に付された。反乱は他の諸民族をも巻き込み、イギリスは正規軍5万人、戦車、爆撃機などを投入しナイロビで2万7千人、農村で107万人の反乱支持者を逮捕してマウマウを山林内に封じ込めた。マウマウは巧みなゲリラ戦で抵抗したが[[1956年]]に指導者の[[デダン・キマジ]]の逮捕により終結。この反乱による死者は白人入植者95人、親植民地派とみなされたアフリカ人1920人、マウマウ側は、11503人だった。イギリス軍は、ケニア植民地予算の4年分に匹敵する巨額の戦費支出を余儀なくされ、これを機にケニアは1963年に独立した。
 
[[1956年]]に指導者の[[デダン・キマジ]]の逮捕により終結。この反乱による死者は白人入植者95人、親植民地派とみなされたアフリカ人1920人、マウマウ側は、11503人だった。イギリス軍は、ケニア植民地予算の4年分に匹敵する巨額の戦費支出を余儀なくされ、これを機にケニアは1963年に独立した。
 
== 脚注 ==
<references/>
 
==外部リンク==