「イギリス領東アフリカ」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m r2.7.2) (ロボットによる 追加: hr:Britanska Istočna Afrika |
編集の要約なし |
||
1行目:
[[File:Flag of British East Africa.svg|right|thumb|200px|英領東アフリカの旗、後のケニヤ植民地でも使用された]]
'''イギリス領東アフリカ''' ('''British East Africa''') は、[[
== 概要 ==
== イギリス東アフリカ会社と保護領化 ==▼
[[モンバサ]]港周辺にイギリスが持っていた商業利権をもとに、[[1888年]]、[[勅許会社]]の{{仮リンク|帝国イギリス東アフリカ会社|en|Imperial British East Africa Company}}(IBEA)が設立されて経営を開始。[[1895年]]に現在の[[ケニア]]に相当する部分が[[保護領]]となった。この保護領は[[1920年]]に直轄の{{仮リンク|ケニア植民地|en|Kenya Colony}}となるまで続いた。
== 歴史 ==
[[Image:Britisheastafrica 1.png|right|thumb|200px|1911年の地図]]
=== 前史 ===
東アフリカの[[インド洋]]海岸部一帯は、[[ザンジバル]]に拠点を置く[[ザンジバル・スルタン国]]が実質的に統治しており、港町の経営や[[農園]]経営、[[奴隷貿易]]を行っていた。しかし[[1840年代]]よりヨーロッパ人宣教師が、名目上はザンジバルの[[スルタン]]の保護の下、[[モンバサ]]の海岸周辺から[[キリマンジャロ山]]にまで入植を開始した。またイギリスは19世紀末、奴隷貿易を禁じザンジバル領の東アフリカの港湾都市の占領を行い、ザンジバルを圧迫していった。
=== アフリカ分割 ===
[[1885年]]に[[ベルリン会議 (アフリカ分割)|ベルリン会議]]([[1884年]]から[[1885年]])で決まった[[アフリカ分割]]の原則では、沿岸部を領有した国は後背地の領有も認められることになっていた。
イギリス東アフリカ会社はモンバサから[[ビクトリア湖]]への[[鉄道]]([[ウガンダ鉄道]])建設や農地開発などを始めたが、[[ブガンダ王国]](現ウガンダ)のカバカ(王)や各地を支配する宣教師たちとの対立が起こり、これに力と時間を割かれて経営は悪化した。[[1895年]][[7月1日]]、イギリス政府はイギリス領東アフリカの[[保護領]]化を宣言し英国外務省の管轄とし、[[1902年]]にはウガンダもその一部となった。[[1902年]]、東アフリカシンジケート(East Africa Syndicate)は内陸高原地帯に白人入植地を作るべく500平方マイル(1,300平方キロメートル)の開発認可を得た。[[1905年]]には管轄は植民地省へ移り、同じ年に首都は海岸のモンバサから内陸高原地帯の[[ナイロビ]]へと遷った。▼
イギリス政府は当時アフリカ大陸南部の権益確保に力を注いでおり余裕がなかったため、民間の手を借りることとし、インド洋全域に航路を広げザンジバル・スルタン国や東アフリカ一帯との商取引も行っていた{{仮リンク|英領インド汽船会社|en|British-India Steam Navigation Company}}(British India Steam Navigation Company)の社長、{{仮リンク|ウィリアム・マッキノン|en|Sir William Mackinnon, 1st Baronet}}(William Mackinnon)にアフリカ東部でのイギリス勢力圏の建設を勧めた。
マッキノンはイギリス東アフリカ協会(British East Africa Association)を結成し、[[1888年]]には勅許を受けて[[勅許会社]]の{{仮リンク|帝国イギリス東アフリカ会社|en|Imperial British East Africa Company}}(Imperial British East Africa Company, IBEA)を設立した。イギリス東アフリカ会社は、[[1890年]]にはさらに[[ウガンダ]]もイギリスの勢力圏に収め、モンバサから[[ビクトリア湖]]への[[鉄道]]([[ウガンダ鉄道]])建設や農地開発などを始めたが、[[ブガンダ王国]](現ウガンダ)のカバカ(王)や各地を支配する宣教師たちとの対立が起こり、これに力と時間を割かれて経営は悪化した。
=== 保護領化 ===
== 高原への白人入植と都市へのインド人移民 ==▼
▲
▲=== 高原への白人入植と都市へのインド人移民 ===
[[Image:Kurve bei Mombasa.jpg|thumb|right|400 px|[[モンバサ]]近郊の[[ウガンダ鉄道]]、[[1899年]]頃]]
[[1902年]]4月、英領東アフリカ最初の土地出願が「東アフリカシンジケート」(East Africa Syndicate)により行われた。この会社は、[[イギリス南アフリカ会社]]に属する出資者たちが設立したもので、気候の良く涼しい高原地帯の500平方マイルの土地をヨーロッパ人による植民のために使おうとした。さらに、[[ユダヤ人]]入植地を適切な場所に作るための出願もなされた([[英領ウガンダ計画]])。[[1903年]]4月、イギリス軍の高名なアフリカ[[探検家]]で東アフリカシンジケートの重役でもあったアメリカ人
この植民政策の遂行をめぐり、英領東アフリカの当時の弁務官[[チャールズ・エリオット (外交官)|チャールズ・エリオット卿]]と、英国外務大臣[[ヘンリー・チャールズ・キース・ペティ=フィッツモーリス (第5代ランズダウン侯)|ランズダウン侯]]の間で論争が起こった。ランズダウン侯は東アフリカシンジケートに与えた誓約を守ろうとして、彼らに対する500平方マイルの賃貸を認可すべきとした。しかしロンドンにいた保護領官僚との話し合いの結果、彼は南アフリカからの入植者に対し別に50平方マイルの賃貸を行おうというエリオットの結論を拒んだ。エリオット卿は、新たな賃貸を禁じながら東アフリカシンジケートへの有利な賃貸契約を守るランズダウン侯の結論を不当な土地独占と述べて辞任している。
== ケニア植民地の成立以降 ==
▲この植民政策の遂行をめぐり、英領東アフリカの当時の弁務官[[チャールズ・エリオット (外交官)|チャールズ・エリオット卿]]と、英国外務大臣[[ヘンリー・チャールズ・キース・ペティ=フィッツモーリス (第5代ランズダウン侯)|ランズダウン侯]]の間で論争が起こった。ランズダウン侯は東アフリカシンジケートに与えた誓約を守ろうとして、彼らに対する500平方マイルの賃貸を認可すべきとした。しかしロンドンにいた保護領官僚との話し合いの結果、彼は南アフリカからの入植者に対し別に50平方マイルの賃貸を行おうというエリオットの結論を拒んだ。エリオット卿は、新たな賃貸を禁じながら東アフリカシンジケートへの有利な賃貸契約を守るランズダウン侯の結論を不当な土地独占と述べて辞任している。現在のケニア[[中央州 (ケニア)|中央州]]一帯は「白人高地」として白人経営による[[コーヒー]]や[[茶]]の農園が広がり1930年代には白人の数は3万人に達した。後に、高原の土地を占有する白人農園は、元来の土地所有権を主張する[[キクユ族]]による[[マウマウ団の乱]]などさまざまな[[民族主義]]運動の標的と化す。
[[アフリカ戦線 (第一次世界大戦)|第一次世界大戦のアフリカ戦線の戦い]]を経て、[[1920年]]には保護領から本国直轄の'''{{仮リンク|ケニア植民地|en|Kenya Colony}}'''となった。[[中央州 (ケニア)|中央州]]一帯には「白人高地」として白人経営による[[コーヒー]]や[[茶]]の農園が広がり、1930年代には白人の数は3万人に達した。後に、高原の土地を占有する白人農園は、元来の土地所有権を主張する[[キクユ族]]による[[マウマウ団の乱]]などさまざまな[[民族主義]]運動の標的と化す。
一方[[1896年]]以来、金融、商業、手工業などを行う[[インド系移民と在外インド人|インドの移民]]がケニアに到来し都市部の経済を動かした。さらにウガンダ鉄道建設のために大勢のインド人がケニアとウガンダに渡ってきた。人種別の隔離がなされ、都市での居住地制限や高原地帯へのインド人入植制限が行われたが、インド人は数で白人を圧倒した。1921年段階でのケニアの推定人口は2,376,000人で、うち9651人はヨーロッパ人、22,822人はインド人、10,102人はアラブ人だった。最大都市はモンバサで人口は32,000人だった。
|