「日本美術史」の版間の差分

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===[[古墳時代]]===
[[ファイル:NintokuTomb.jpg|thumb|left|230x230px|仁徳天皇陵とされる「大山古墳」 {{国土航空写真}}]]
 
おおよそ3世紀後半から6世紀半ば頃までの期間を指す。多数の小国家に分かれていた日本には、この頃から強大な権力をもった王権が成立する。この時代を代表する遺物は、時代の名称にもなっている古墳、その中でも前方後円墳である。既に弥生時代から西日本を中心に墳丘墓が営まれていたが、3世紀後半頃から大和盆地を中心に前方後円墳と称される日本独特の形式の大規模な墳墓が営まれるようになった。奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳は最初期の古墳と言われている。こうした大規模な土木工事が可能になったということは、技術の発達と共に、多くの労働力を使えるだけの権力をもち、広範囲に支配を広げた王権の成立を意味する。5世紀には大阪平野を中心にさらに大規模な前方後円墳が営まれた。大阪府堺市の大仙古墳(伝・仁徳天皇陵)はその典型的な例である。古墳は7世紀に入っても築造され、地方によっては8世紀まで造られているが、仏教公伝の年とされる538年頃を境に、それ以後を飛鳥時代、以前を古墳時代と呼んでいる。
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==古代・中古==
[[ファイル:HoryujiGrounds0311Print.jpg|rightleft|thumb|230x230px|法隆寺西院伽藍。飛鳥様式の建築だが、実際の建立は7世紀末]]
美術史上の飛鳥時代は、6世紀半ば、日本へ仏教が公式に伝来した時期から、7世紀後半の[[天智天皇]]の治世辺りまでを指す。この時代に入っても古墳の造営は引き続き行われているが、一応、仏教公伝の時期をもって古墳時代と区切っている。飛鳥時代の終期については、政治史上の区分では710年の平城遷都の年とするのが通常である。美術史上の区分でも710年までを飛鳥時代とする場合もあるが、[[法隆寺]]が火災で炎上した(『[[日本書紀]]』による)670年、ないし[[天武天皇]]即位の673年辺りを始期として、以後平城遷都までの期間は「白鳳時代」または「奈良時代前期」として別の時代と見るのが通例となっている。
 
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===[[平安時代]]===
[[ファイル:Byodoin Phoenix Hall Uji 2009.jpg|thumb|left|260px|[[平等院]]鳳凰堂]]
 
平安遷都の794年から1185年頃まで、9世紀から12世紀に至る約4世紀にわたる時代である。美術史では、[[遣唐使]]が廃止された894年辺りを境にして、以前を平安時代前期、以後を平安時代後期(藤原時代)と呼ぶことが多い。特に彫刻史の方面では平安時代前期を貞観(じょうがん)時代または弘仁時代と呼ぶこともあったが、特定の元号で平安時代前期を代表させることにはあまり意味がないことから、今日ではこれらの呼称はあまり用いられていない。