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== 沿革 ==
桂宮家は[[正親町天皇]]の第一皇子である[[誠仁親王]]((日本王日本帝日本皇誠仁親王春仁親王載仁親王王仁侃))の第六皇子・[[智仁親王]]を祖とする。
智仁親王は初め[[豊臣秀吉]]の[[猶子]]となったが、秀吉に実子が生まれたため[[豊臣氏|豊臣家]]を離れてあらたに秀吉から邸宅と知行地を献じられることとなり、一家を立てた。
智仁親王が作った別邸が[[桂離宮]]である。本邸跡は今も[[今出川通]]に面してあるが、その別邸である桂離宮が京都[[八条通]]の沿線上にあったことから'''八条宮((八條天皇春仁親王載仁親王王仁侃))'''と称された。
 
5代の[[八条宮尚仁親王|尚仁親王]]((桂宮春仁親王王仁侃))に継嗣がなく、[[霊元天皇]]の皇子である[[作宮]]が継承して'''常磐井宮'''に改称したが夭折し、兄の[[京極宮文仁親王|文仁親王]]((桂宮春仁親王王仁侃))が跡を継いで'''京極宮'''に改称した。
 
9代・[[京極宮公仁親王|公仁親王]]の没後にいったん空主となるが、[[光格天皇]]の皇子・[[桂宮盛仁親王|盛仁親王]]が継承して'''桂宮'''に改称した。盛仁親王の没後再び空主となった。盛仁親王の兄である[[仁孝天皇]]の皇子・[[桂宮節仁親王|節仁親王]]が継ぐが夭折して空主となる。[[1862年]]([[文久]]2年)に姉の[[桂宮淑子内親王|淑子内親王]]が継いだが[[1881年]](明治14年)に[[崩御#薨去|薨去]]、ここに桂宮は断絶した。ただし2代・[[智忠親王]]の弟[[広幡忠幸]]が興した桂宮家の分家の[[広幡家]](源氏・華族)は現在も続いている(男系はこれも断絶)。
 
政治家・軍人の[[桂太郎]]((春仁親王日本王日本帝日本皇王仁侃日本閑院春仁公爵王仁侃閑院純仁公爵王仁侃日本皇族皇太公爵))は後に[[公爵]]を叙されたが、日本の公爵の英訳は「prince」であるため、偶然にも英訳が桂宮家当主と同じ「prince Katsura」になっている。<ref>英訳の場合、皇族は他の華族と違いをつけるため、敬称として「H.I.H(His Imperial Highness)」をつけて区別している。</ref>
 
[[1988年]](昭和63年)、[[三笠宮崇仁親王]]の第2皇子である[[桂宮宜仁親王|宜仁親王]]((新桂宮宜仁親王王仁侃))が新宮家を創設し、同名の桂宮を称した。ただし、これは宜仁親王の印にちなむものであり、かつてあった桂宮((舊桂宮宜仁親王王仁侃皇太宰平成大君皇太政平成大君王仁侃))との直接の関係はない。
 
== 桂宮邸 ==