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'''関 銀屏'''(かん ぎんぺい、関三小姐とも。生没年不詳)は、「[[三国志]]」にまつわる民間伝承より発祥したと考えられる架空の人物。 関三小姐とも呼ばれる。[[劉備]]の武将[[関羽]]の三番目の娘。[[李恢]]の子、[[李蔚]](または[[李遺]]とも。[[李恢]]の子。)に嫁いだとされている。なお夫婦の墓が現存している。
 
== モデルについて ==
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関羽が孫権との婚姻を拒む逸話は『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』・『[[三国志演義]]』共に掲載されており、この逸話が[[民間伝承]]の下敷きになったと考えられる。
しかし『三国志』・『三国志演義』にはこれ以上の「関羽の娘」に関する詳しい挿話はなく、また「銀屏」などの名称も見られない。
 
== モデルについて ==
[[219年]]、劉備が[[漢中]]王になると、関羽は[[前将軍]]・仮節に任じられた。
ちょうど時期を同じくして、'''[[孫権]]の息子'''と'''関羽の娘'''の婚姻を孫権側が申し入れてきた。関羽がこれを拒否すると両者の関係が悪化したため、[[曹操]]軍の[[司馬懿]]と[[蒋済]]は「この隙をつき、孫権と同盟を結ぶように」と曹操に進言した。
 
関羽が孫権との婚姻を拒む逸話は『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』・『[[三国志演義]]』共に掲載されており、この逸話が[[民間伝承]]の下敷きになったと考えられる。
しかし『三国志』、『三国志演義』にはこれ以上の'''「孫権の息子」'''、'''「関羽の娘」'''に関する詳しい挿話はなく、また「銀屏」、「関三小姐」などの名称も見られない。
 
== 民間伝承・逸話 ==
民間伝承によると、関銀屏(関三小姐、[[205年]]頃 - 没年不詳)字は不明。司州河東郡解県の人。関羽の三番目に生まれた娘。
[[劉備]]と共に[[荊州]]の[[劉表]]の下に身を寄せていた[[205年]]頃、関羽に'''色白の可愛い娘'''が生まれた。[[張飛]]は、この義姪を大変可愛がり'''関銀屏'''と名付けた。
関羽は、[[虎牢関]]で[[呂布]]と闘い勝利したとき、呂布が[[紫金冠]]につけていた[[真珠]]をお守りとして大切に所持していたが、これを関銀屏に贈った。'''魔除けの力'''があると信じられ、[[劉禅]]、[[張苞]]、[[関興]]ら宝玉や呪(まじな)いの類いに興味の無さそうな男子に贈るには惜しい品だった。(真珠は関羽ではなく張飛が贈ったとも、二人から贈られたとも)
天下無双の飛将軍、呂布を倒した威風堂々の大漢(おおおとこ)の噂はたちまち世間に知れ渡り、いつしか'''軍神'''と崇め敬われていた。
 
成長した関銀屏は一層美しく、色白で賢明な淑女に育ち、多芸に通じ、'''軍神の娘'''の評判に縁談が絶えることはなかったという。
そんな中、[[孫権]]にも関羽の娘の評判は聴こえ、孫権から「貴殿の年頃の愛娘(関銀屏)を、是非、我が長男の[[孫登]]の嫁に欲しい」という手紙が届いたとき、関羽は'''「狢(むじな)の仔め、高望みが過ぎるわ(虎の娘を犬の仔にはやらん)!」'''と使者を一喝し、面目を潰された孫権から関羽は恨みを買った。(「狢の仔」([[狢子]]、かくし)とは江東など南方の住人に対する蔑称の一つ)
 
[[219年|建安24年]]、孫権が関羽を攻めた。関羽の荊州が陥落しそうになった。
関羽から「銀屏、義兄上(劉備)と軍師殿([[諸葛亮]])に救援を要請したい。直ちに益州へ急いでくれ」と理由を付けてもらい、関銀屏(、[[関興]]、[[関エツ]]、[[趙氏]](、[[関索]]、[[鮑三娘]])ら)は荊州から益州に逃れる事が出来た。関羽、[[関平]]、[[周倉]]らは孫権軍の[[馬忠]]、[[呂蒙]]らに捕らえられ[[自刃]]、または首を撥ねられた。この功績で[[赤兎馬]]は馬忠のものとなったが餌を食べず、ある日、元主関羽を思ったか、[[青龍偃月刀]]と共に河へ飛び込み入水自殺した。呂蒙は戦勝の宴でいきなり孫権の首を絞め'''「俺が誰だか分かるか? 我は、関雲長なり!」'''と絶叫し、体中の穴という穴から血を吹いて亡くなった。関羽の呪いを畏れた孫権から、共闘の感謝の印として、関羽の御首級(みしるし、首)は曹操に届けられた。曹操は御首級に向かい「久し振りだな。その後、変わりは無いか?」と云うと関羽はカッと目を見開いたという。それを恐れた曹操は関羽を祀る祠を作らせた。それが現在の[[関帝廟]]の元になったという。後に曹操は治まっていた持病の頭痛が再発し関羽を追うように亡くなり、孫権は晩年に痴呆を患い邪神を信じ、諌める[[陸遜]]らを顧みず憤死させてしまい、後の[[二宮の変]]の遠因を招いた。これら一連は'''関羽の呪い'''として巷に畏れられたという。
 
後に'''「荊州城は落ちても、呂布の真珠のおかげで関銀屏たちは命拾いをした」'''と噂された。
しかし関銀屏は、父、関羽や義兄、関平の[[仇]]を雪(と)りたいと、ろくに成都で食事を取らず痩せてしまった。
 
張飛は関銀屏に衣装を贈るが、関銀屏は涙を流すばかり。
「綺麗な装飾など今の私には似合いません。父の仇を雪りたいのです」と言う。
関銀屏は、[[趙雲]]に武芸を習いたちまち腕を上げて行った。他の男子生徒を稽古で打ち負かした関銀屏は師匠の趙雲から'''「貴女の胸の奥に御父君(ごふくん、関羽)が息衝いて居られるようだ」'''と云われ嬉しかった。
 
[[225年|建興3年]]、[[雲南]]で叛乱が起きたので、諸葛亮は反乱が頻発する[[南中]]へ自ら軍を率いて[[討伐]]に向かおうとしていた。関銀屏はこの制圧に赴くことになった。
関銀屏は本心では、雲南より先に荊州の孫権軍を討ちたかったが、'''「父母の仇(孫権)は、玄関から泥棒が入ったようなもの。いま雲南の叛乱は、裏庭が火事なっているようなものです。裏庭の火事を消せば、玄関から入った泥棒を捕まえることに、集中できるはずです。諸葛丞相は、それを見通しておられるのです」'''と、国家の方針に納得した。
 
諸葛亮は南中兪元出身の[[李恢]]を副官に取り立て、その息子である李蔚([[李遺]]のこと)もまた優秀であることを知ると 自ら[[仲人]]となって銀屏と娶わせ従軍させることにした。人々は箱入り娘が辺境へ遠征することを憂慮し、銀屏を諌めたが、関羽の後を継いだ関興が縁談を承諾した。
銀屏は李恢父子と南征で手柄を立て、三人はその後も兪元に落ち着き、 住民に養蚕、農耕から読み書き算盤、果てには趙雲直伝の武術に至るまで色々助け教えてあげて、地元の人々は彼女を慕い「'''関三小姐(かんさんしょうしゃ)'''、関姐様(かんしゃよう、かんねえさま)」'''と呼び親しんでいた。
 
死後もその村に夫の李蔚(李遺)と共に埋葬され、後に合祀された。毎年の清明の時、たくさんの現地住民が墓参りをして彼女ら三人に尊敬の意を表している。地元の人々はいつまでも彼女らの大徳を遺そうと想い、今でも子々孫々に伝え続けている。
 
関銀屏は南征以後、兪元を離れることはなかったが、[[金蓮山]](金連山とも)に毎朝登って北方を眺めながら化粧をして故郷を懐かしんでいた。
亡くなると金蓮山に関羽の形見の真珠と一緒に葬られた。それ故、今でも晴れた日には山の頂きが煌めくという。
 
雲南省曲靖県の民間伝承より。
 
== 参考文献 ==