「永昌大君」の版間の差分

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永昌大君が生まれると、嫡流の後継者を望んでいた宣祖は次男([[庶子]])の[[光海君]]の代わりに永昌大君を[[世子]]に冊封しようと考え、柳永慶など[[北人#歴史|小北派]]の支持を受けた。しかし、[[1608年]]に宣祖が急死すると、幼少の永昌大君ではなく光海君が即位した。
 
[[1613年]]、[[庶孽党#七庶獄事|七庶獄事]]が起こると、[[北人#歴史|大北派]]の操作によって永昌大君と仁穆王后の父である[[金悌男]]に疑いがかけられた。金悌男は賜薬に処せられ、永昌大君は庶人(平民)に降格の上、[[江華島]]に流刑にされた。のち江華府使鄭沆の手によって、極端に温度を上げた[[オンドル]]部屋に監禁され自身が寝ている間に[[蒸殺]]([[焚刑]])された。ちなみにの[[処罰法]]は朝鮮史上、'''最も大変罪の重い[[処罰]]の一つ'''とされている。享年8。
 
[[仁祖]]の即位後に名誉を回復した。墓は[[京畿道]][[安城市 (京畿道)|安城市]]にある。