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超プロ住民 (会話 | 投稿記録)
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== 略歴 ==
もと母方の何氏に養育されていたが、後に王姓に戻った。
[[曹操]]が[[漢中]]に侵攻して[[張魯]]を降した際、恭順した異民族の指導者である杜濩・朴胡に伴い曹操に帰順し、[[洛陽]]に赴き[[校尉]]の位を与えられていたが、[[218年]] - [[219年]]の[[定軍山の戦い]]を含んだ一連の漢中攻防戦の際に[[劉備]]軍へ降り、牙門将・裨将軍に任命された。以降は蜀漢に仕えている。
 
[[諸葛亮]]の[[北伐]]にも従軍し戦功を挙げた。特に王平の名を高めたのは[[街亭の戦い]]で、王平は諸葛亮から[[馬謖]]軍の先鋒を命じられ、馬謖が山上に布陣しようとするのを何度も諌めた。しかし馬謖が王平の諌言を聞き入れなかったため、結果として[[魏 (三国)|魏]]軍に大敗を喫した。しかし、王平の指揮する部隊1,000が踏み留まって陣太鼓を打ち鳴らし踏み堪えたため、魏軍を率いていた[[張コウ|張郃]]は伏兵の存在を疑って近づこうとはしなかった。敵が追撃の手を緩めたところで彼は徐々に諸営の残留兵を収容し将兵を率いて帰還した。これにより蜀軍は全滅を免れることができた。馬謖及びその配下の武将がいずれも軍令違反で処罰されたが、王平だけはこの時の功績により特別に敬意が払われた。参軍・討寇将軍の地位を与えられ、五部の兵を統率することを許可ると共に亭侯に封じられている。
 
[[231年]]、諸葛亮が祁山に出陣した際、王平は別働隊を率いて山の南を守備した。この時、[[司馬懿]]が諸葛亮の軍を、張&#x90C3;が王平の軍を攻撃したが、王平は堅守して張&#x90C3;軍を撃退している<ref>『[[漢晋春秋]]』によれば、諸葛亮は魏延・[[呉班]]・[[高翔]]を派遣して司馬懿を撃退し、敵の首級を三千・鎧を五千・[[弩]]を三千百獲得した。</ref>。
 
[[234年]]、諸葛亮が[[五丈原]]で魏軍と対陣中に没すると、[[楊儀]]は諸葛亮の遺言に従い全軍撤退を命じた。ところが、かねてから楊儀と不仲であった[[魏延]]が撤退命令に従わず、楊儀討伐の兵を挙げるという事態が起きてしまった。この時、王平は楊儀の先鋒となり、魏延配下の兵士に向かって「公(諸葛亮)が亡くなり、その身もまだ冷たくならない内に、お前たちはなぜこんな事をしようとするのか」と一喝した(『蜀書』魏延伝)。魏延の兵士たちこれを聴くと、魏延を見捨てて逃げ去ったため、楊儀は難なく魏延を討ち取ることに成功した。[[陳寿]]はこの時の戦いを「一戦して(魏延を)破りこれを平らげたのは、王平の功績である」と、称賛している。
 
撤退後は後典軍・安漢将軍に昇進し、[[呉懿]]の副将として漢中に駐屯した。また、漢中[[太守]]を兼任した。[[237年]]に呉懿が死去すると、後任として漢中方面の守備を任され、安漢侯に封じられた。その後も、前監軍・鎮北[[大将軍]]に昇進し、漢中の軍事・行政を一任された。[[244年]]、魏の[[曹爽]]が10万の大軍を率い侵攻してきたが、王平は興勢山に出撃してこれを迎え撃ち、[[費イ|費&#x7995;]]の援軍が到着するまで時間を稼ぎ、撃退することに成功した。このころ[[トウ芝|&#x9127;芝]]と[[馬忠 (蜀漢)|馬忠]]がそれぞれ蜀の東と南を防備していたが、王平の名声は彼らと並び称されるほどであった。また『[[華陽国志]]』によると、同郡出身の[[句扶]]や後任の大将軍である[[張翼]]・[[廖化]]と並んで、賞賛されていたとある。
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248年に病死し、嫡子が後を継いだ。
 
陳寿は、王平伝で「長らく軍旅にあったため文章が書けず、知っている字は10字に満たなかったが、口述筆記させた文章は道理に適っていた。『[[史記]]』・『[[漢書]]』を人に読んでもらいその大略を掴み、論じては要旨を捉えていた。法律を忠実に履行し、戯言を口にせず、終日端座するという武将らしからぬ様子であった。然しながら性格が偏狭で疑い深く、軽はずみな人柄であったため、それが欠点となっていた。(中略)忠勇にして厳整な人物であった」と評する<ref>「平生長戎旅、手不能書、其所識不過十字、而口授作書、皆有意理。使人讀史・漢諸紀傳、聽之、備知其大義、往往論説不失其指。遵履法度、言不戲謔、從朝至夕、端坐徹日、[忄畫]無武將之體、(中略)評曰・・・王平忠勇而嚴整」。なお、中略部分につきノートも参照。</ref>。
 
小説『[[三国志演義]]』では、漢中攻防戦に際して、漢中の地理に詳しいということで曹操から郷導使に任命されるも、[[徐晃]]と仲違いし殺されかけたため劉備に降り、以後蜀の武将として仕えたことになっている。また[[南蛮]]戦(南征)でも活躍している。諸葛亮は臨終の時、忠義の士として廖化や[[馬岱]]らとともに王平の名前も挙げている。
 
南充市高坪区に墓所が残る。[[清]]の[[光緒]]年間に墓碑が建てられ「漢将軍王平之墓」と記された。地級文物保護単位。
 
== 注釈 ==