「秩父重綱」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
29行目:
長男の重弘は畠山氏の祖となり、家督を継いだ次男の重隆は河越氏の祖となって両者の家系で秩父氏家督を巡る争いが続く事になる。
== 子孫 ==
秩父重綱の子は武蔵国の各地を相続して勢力を拡大し同族集団である特に秩父から入間川(現[[荒川]])形成通じて東京湾に至る川筋を支配した。秩父党の各河越には[[河越]]、江戸湊と浅草に[[江戸氏]]がおり、1180年に伊豆で挙兵した[[源頼朝]]も、下総国と武蔵国各地の境進出し勢力ある入間川で江戸重長に行く手拡大阻まれ、江戸氏や[[葛西氏]]の協力なにはこの川を渡ることができなかった。
 
長男の重弘は、長男でありながら秩父氏の家督を継ぐことはなく、子は[[畠山氏 (平姓)]]、[[小山田氏]]の祖となった。畠山氏は[[畠山重忠]][[源頼朝]]に仕え、[[奥州合戦]]で活躍し繁栄するが、後に執権時政によって謀反の疑いをかけられて滅ぼされた。後に[[足利義純]]が名跡を継いで源姓[[畠山氏]]となり、[[三管領家]]となった。足利一門の家臣筋分家の中で[[斯波氏]]に次いで高い序列に列せられ、[[細川氏]]など他の家臣筋分家とは異なる待遇を[[足利将軍家]]から受けることになる。
 
二男の重隆は、秩父氏の家督を継いで「武蔵国留守所総検校職」を務め、[[河越氏]]の祖となった。孫の[[河越重頼]]は源頼朝の命令で[[源義経]]に娘(郷御前)を嫁がせた事から、源氏兄弟の対立に巻き込まれ、誅殺された。
 
三男の重遠は、[[高山氏]]の祖となり、子孫に[[戦国大名]]で、[[キリシタン大名]]の[[高山右近]]などがいる。
 
四男の重継は、武蔵国江戸郷を相続し[[江戸氏]]を興す。子の[[江戸重長|重長]]の代には源頼朝に仕え、[[鎌倉幕府]][[御家人]]となったほか、[[武蔵国]]の[[在庁官人]]や諸[[郡司]]を統率して国の諸雑事を沙汰する権限を与えられて武蔵国に勢力を拡大し、江戸氏一族の繁栄の基礎を築いた。[[鎌倉幕府]]滅亡後は[[鎌倉公方]]に仕えた。後に、江戸氏十八支流と呼ばれる[[六郷氏]]、[[蒲田氏]]、[[中野氏]]などの多くの支流一族が江戸一帯に展開したほか、庶流といわれる[[喜多見氏]]は将軍[[徳川綱吉]]の代に[[大名]]に列し[[喜多見藩]]を立藩した。