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== その他 ==
銭静方『小説叢考』では、清代に「発見された」関羽の墓碑なるものを根拠に、関羽の生年を[[延熹3年|(160年)]][[6月24日]]とし、父の名は[[関毅]]、妻は胡氏([[胡金定]])であるとする。さらに関平を関羽の実子とし、[[光和元年|(178年)]](178年3月以降)に生まれたとする。
[[日本放送協会|NHK]]の『[[人形劇 三国志]]』では、父親と生き別れ、[[司馬徽]]の家で童子として働いていたところで劉備達と出会い、行動を共にするようになり、関羽を実の父親同然に慕う内に義子として迎えられ、立派な武将に成長し活躍するという、『三国志演義』から大きく脚色された設定がなされている。作中では演義での関興の役割も吸収しており、諸葛亮の[[北伐]]にも従い[[姜維]]と共に彼の最期を看取り、長い物語の終焉を飾る大事な役割を果たしている。
 
なお、関平の字は史実・『演義』において記されていないが、民間伝承においては字が「坦之」<ref>『関聖太子宝誥』の関聖太子事略ては「関聖帝君之長子也。名平,字坦之」。</ref>(たんし)であると伝えられている。[[京劇]]古典剧目の『走麦城』でも「関坦之」と表記される。[[2010年]]の中国のドラマ『三国志 Three Kingdoms』では「定国」と設定されている。
 
また、[[清]]代の『[[江陵県志]]』によると、関平は[[趙雲]]の娘『[[趙氏]]』を娶ったという。 関平と趙氏の子は『[[関エツ|関樾]]』(かんえつ)(木偏に越)という名で、江陵に住んでいたとある。(趙氏,關平之妻,清《江陵縣志》載關平娶鎭東将軍趙雲女趙氏,生子關樾,世居江陵)。[[219年]]、関樾が八歳のとき、母親の趙氏らとともに炎上する荊州(『[[樊城の戦い]]』)から益州へ逃れ、関羽の血筋を守ったという。
 
[[日本放送協会|NHK]]の『[[人形劇 三国志]]』では、父親と生き別れ、[[司馬徽]]の家で童子として働いていたところで劉備達と出会い、行動を共にするようになり、関羽を実の父親同然に慕う内に義子として迎えられ、立派な武将に成長し活躍するという、『三国志演義』から大きく脚色された設定がなされている。作中では演義での関興の役割も吸収しており、諸葛亮の[[北伐]]にも従い[[姜維]]と共に彼の最期を看取り、長い物語の終焉を飾る大事な役割を果たしている。
 
==脚注==