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== 民間伝承・逸話 ==
民間伝承によると、関銀屏(関三小姐(かんさんしょうしゃ)とも、[[205年]]頃 - 没年不詳)字は不明。司州河東郡解県の人。関羽の三番目に生まれた娘。
 
[[劉備]]と共に[[荊州]]の[[劉表]]の下に身を寄せていた[[205年]]頃、関羽に'''色白の可愛い娘'''が生まれた。[[張飛]]は、この義姪を大変可愛がり'''関銀屏'''と名付けた。
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[[219年|建安24年]]12月、孫権が関羽を攻めた。関羽の荊州が陥落しそうになった。
関羽から「銀屏、義兄上(劉備)と軍師殿([[諸葛亮]])に救援を要請したい。直ちに益州へ急いでくれ」と理由を付けてもらい、関銀屏(、[[関興]]、[[関エツ]]、[[趙氏]](、[[関索]]、[[鮑三娘]])ら)は荊州から益州に逃れる事が出来た。関羽、[[関平]]、[[周倉]]らは孫権軍の[[馬忠]]、[[呂蒙]]らに捕らえられ[[自刃]]、または首を撥ねられた(演義では[[10月14日]])。
この功績で[[赤兎馬]]は馬忠のものとなったが餌を食べず、ある日、元主関羽を思ったか、[[青龍偃月刀]]と共に河へ飛び込み入水自殺した。
呂蒙は、戦勝の宴(演義では[[12月17日]])でいきなり孫権の首を絞め'''「俺が誰だか分かるか? 我は、関雲長なり!」'''と絶叫し、体中の穴という穴から血を吹いて亡くなった。
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後に曹操は治まっていた持病の頭痛が再発し関羽を追うように亡くなり、孫権は晩年に痴呆を患い邪神を信じ、諌める[[陸遜]]らを顧みず憤死させてしまい、後の[[二宮の変]]の遠因を招いた。これら一連は'''関羽の呪い'''として巷に畏れられたという。
 
後に'''「荊州城は落ちても、(呂布の真珠のおかげで)関銀屏たちは命拾いをした」'''と噂された。
しかし関銀屏は、父、関羽や義兄、関平の[[仇]]を雪(と)りたいと、ろくに成都で食事を取らず痩せてしまった。
 
張飛は関銀屏に衣装を贈るが、関銀屏は涙を流すばかり。
「綺麗な装飾など今の私には似合いません。父の仇を雪りたいのです」と言う。
関銀屏は、[[趙雲]]に武芸を習いたちまち腕を上げて行った。他の男子生徒を稽古で打ち負かした関銀屏は師匠の趙雲から'''「貴女の胸の奥に御父君(ごふくん、関羽)が息衝いて居られるようだ」'''と云われ嬉しかった。
 
[[225年|建興3年]]、[[雲南]]で叛乱が起きたので、諸葛亮は反乱が頻発する[[南中]]へ自ら軍を率いて[[討伐]]に向かおうとしていた。関銀屏はこの制圧に赴くことになった。
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諸葛亮は南中[[兪元]]出身の[[李恢]]を副官に取り立て、その息子である李蔚([[李遺]]のこと)もまた優秀であることを知ると 自ら[[仲人]]となって関銀屏と娶わせ従軍させることにした。人々は箱入り娘が辺境へ遠征することを憂慮し、関銀屏を諌めたが、関羽の後を継いだ関興が縁談を承諾した。
関銀屏は李恢父子と南征で手柄を立て、三人はその後も兪元に落ち着き、 住民に養蚕、農耕から読み書き算盤、果てには趙雲直伝の武術に至るまで色々助け教えてあげて、地元の人々は彼女を慕い「'''関三小姐(かんさんしょうしゃ)'''、関姐様(かんしゃよう、かんねえさま)」と呼び親しんだという。
 
死後、その村に夫の李蔚(李遺)と共に埋葬され、後に合祀された。毎年の[[清明]]の頃、現地住民がこぞって墓参りをし、彼女ら三人に尊敬の意を表している。地元の人々はいつまでも彼女らの大徳を遺そうと想い、今でも子々孫々に伝え続けている。
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関銀屏は南征以後、兪元を離れることはなかったが、[[金蓮山]](金連山とも)に毎朝登って北方を眺めながら化粧をして父と輝いた故郷を懐かしんでいた。
 
亡くなると金蓮山に関羽の形見の真珠と一緒に葬られた。それ故、今でも晴れた日には山の頂きが[[五色]]に煌めくという。
 
雲南省曲靖県の民間伝承より。