「一橋派」の版間の差分

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Eiryaku (会話 | 投稿記録)
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従来、幕政を主導していた[[譜代大名]]が多かった南紀派に対し、一橋派は幕政から遠ざけられていた[[親藩]]や[[外様大名]]が中心であり、背景には[[老中]]首座・[[阿部正弘]]([[備後福山藩]]主)がこれら親藩・外様大名を幕政に参与させたことによる発言力の高まりがあった。
 
一橋派は、[[安政]]3年([[1856年]])に島津斉彬が養女([[天璋院]])を家定の後室に据えるなど[[大奥]]への工作もはかったが、謹厳実直な徳川斉昭は奢侈を好む望んで増長した大奥からは嫌われ、へ巧く勢力を浸透させられなかった。阿部の死後、幕閣を主導した老中・[[堀田正睦]]([[佐倉藩]]主)は一橋派に好意を示し、安政5年([[1858年]])の[[日米修好通商条約]]をめぐる争いも絡んで、[[京都]]の[[朝廷]]を巻き込んで両派の対立は激化した。松平慶永の腹心・[[橋本左内]]や島津斉彬の腹心・[[西郷隆盛]]らも京都で暗躍したが、南紀派の重鎮・[[井伊直弼]]([[彦根藩]]主)が[[大老]]に就任したことで、条約問題も継嗣問題も一挙に井伊の主導の下に解決独裁が図られ、結局慶福が継嗣となって一橋派は敗北当面後退した。
 
この措置に憤った斉昭・慶篤・慶勝らは許可なく江戸城へ登城し、井伊に談判におよんだため、蟄居謹慎を命ぜられる。これを機に井伊は「[[安政の大獄]]」を開始。京都でも南紀派の老中・[[間部詮勝]]([[鯖江藩]]主)が弾圧を行い、一橋派大名は軒並み[[隠居]]・[[謹慎]]の憂き目にあった(率兵上京により情勢を挽回しようとした島津斉彬は出兵直前に病死)。これらの大名が復権するのは[[桜田門外の変]]により暴政を恣する井伊が暗殺征伐され、斉彬の弟・[[島津久光]]が率兵上京を敢行して幕府に迫り[[文久の改革]]を行わせた後となる。
 
==関連項目==