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=== 牧師時代 ===
[[1910年]]に[[ジュネーヴ]]で改革派教会副伝道師となり、1911年から1921年まで、[[アールガウ州]]ザーフェンヴィル村で改革派教会の[[牧師]]を務める。このザーフェンヴィル村というのは当時の工業化の影響を受けていた、つまり社会主義や労働組合運動が盛んであった。バルトは父から受けた「神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより<ref>コリントの使徒への手紙二 四章一節以下</ref>」という助言のもと、教会で説教を行っていたが、説教の内容に工場主が反発した。これは単なる2者間の対立とも受けとれるが、工業化の波はこの村のみならず世界中に押し寄せていたため、バルトは世界史の問題と対立していたことになる。[[1912年]]、父ヨハンが他界する。そのとき父から、学問・批評よりも主を愛し、生ある身で交わりをもてるよう祈ってゆかねばならない、との趣旨の遺言を受け、初めて父の生き方を理解する。[[1913年]]にネリー・ホフマンと結婚し、翌[[1914年]]に長女フランシスカ、1915年に長男マルクース、1917年には次男クリストフが生まれる。1913年にはエドゥアルト·トゥルナイゼンがこの村の牧師として赴任した。彼はヘルマン・クッターと親交があり、さらにレオンハルト·ラガーツの影響を受けながら、後にバルトとトゥルナイゼンは宗教社会主義と関係を持っていく。[[1915年]]に[[カール・ユング]]の精神分析を受けており、父に対しエディプス・コンプレックスがあると診断された。[[1919年]]には1916年からギリシャ語聖書を翻訳し、独自の解釈を付けて執筆していた『ロマ書』の第一版を発表すると、当時の神学界で大きな話題となった。バルトは自著で文化プロテスタント主義に対して、神学のテーマが人間学に解消されているとして攻撃的な批判をし、本来のテーマの回復を目指してキリストの重要さを説いた。[[1920年]]10月に牧師のフリードリヒ・ゴーガルテンがバルトを訪ね、『ロマ書』に書かれた内容に大いに共鳴したと話をした。この話し合いの前にフランツ・オーファベックがした近代的キリスト教批判の思想に触れていた。その他にもニーチェ、イプセン、ドストエフスキー、キルケゴール、弟のハインリッヒのプラトン研究から影響を受け、『ロマ書』の第二版を書き始める。こうして、ブルームハルトの「神の国」の終末論はオーファベックの否定性を帯び、キルケゴール的なパラドックスによって強化された永遠と時間の質的差別の論理によって、一気に大著へと書き直されることとなった。<br />
 
[[1912年]]、父ヨハンが他界する。そのとき父から、学問・批評よりも主を愛し、生ある身で交わりをもてるよう祈ってゆかねばならない、との趣旨の遺言を受け、初めて父の生き方を理解する。[[1913年]]にネリー・ホフマンと結婚し、翌[[1914年]]に長女フランシスカ、1915年に長男マルクース、1917年には次男クリストフが生まれる。<br />
 
1913年にはエドゥアルト·トゥルナイゼンがこの村の牧師として赴任した。彼はヘルマン・クッターと親交があり、さらにレオンハルト·ラガーツの影響を受けながら、後にバルトとトゥルナイゼンは宗教社会主義と関係を持っていく。[[1915年]]に[[カール・ユング]]の精神分析を受けており、父に対しエディプス・コンプレックスがあると診断された。<br />
 
[[1919年]]には1916年からギリシャ語聖書を翻訳し、独自の解釈を付けて執筆していた『ロマ書』の第一版を発表した。バルトは自著で文化プロテスタント主義に対して、神学のテーマが人間学に解消されているとして攻撃的な批判をし、本来のテーマの回復を目指してキリストの重要さを説いた。[[1920年]]10月に牧師のフリードリヒ・ゴーガルテンがバルトを訪ね、『ロマ書』に書かれた内容に大いに感動したと話をした。この話し合いの前にフランツ・オーファベックがの近代的キリスト教批判の思想に触れており、その他にもニーチェ、イプセン、ドストエフスキー、キルケゴール、弟のハインリッヒのプラトン研究から影響を受けており、ゴーガルテンの来訪を機に『ロマ書』の第二版を書き始める。こうして、ブルームハルトの「神の国」の終末論はオーファベックの否定性を帯び、キルケゴール的なパラドックスによって強化された永遠と時間の質的差別の論理によって、一気に大著へと書き直されることとなった。
 
=== 『ローマ書』と『時の間』の刊行 ===
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