「秋月悌次郎」の版間の差分

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その後に召喚されて薩摩藩との関係修繕を試みるが失敗。[[戊辰戦争]]では軍事奉行添役となり各地に出陣したが、専ら裏方として活動し戦場で戦う機会は無かった。降伏の際には[[手代木勝任]]とともに[[若松城|会津若松城]]を脱出し[[米沢藩]]へ赴き、その協力を得て[[官軍]]首脳へ降伏を申し出た。また[[小川亮]]、[[山川健次郎]]の2人の優秀な青年を、面識ある長州藩士の[[奥平謙輔]]に預けた。会津藩軍事面の重要な役に就いていた事もあり[[猪苗代町|猪苗代]]において謹慎し、[[明治]]元年([[1868年]])には[[会津戦争]]の責任を問われ終身禁固刑となるが、明治5年([[1872年]])に特赦によって赦免される。同年新政府に[[左院]]省議として出仕し、[[第五高等学校 (旧制)|第五高等学校]]([[熊本大学]]の前身校)など各地の学校の教師となる、五高では[[小泉八雲]]と同僚であった。晩年は[[東京]]に住み、明治33年([[1900年]])、74歳で死去。
 
小泉八雲は、秋月の会津藩士としての熾烈な過去と、常に柔和で生徒の尊敬を集める人格を高く評価し「神が姿を表すとしたらこの老先生のような姿だろう」という意味のことを書き残記述している<ref>[[小泉八雲]]『東の国から』所収「九州の学生とともに」より(恒文社 新版2009年)</ref>。
 
墓所は東京都港区の[[青山霊園]]。