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'''オーロビンド・ゴーシュ'''(''' Sri Aurobindo Ghose ''',[[ベンガル語]]: শ্রী অরবিন্দ ''Sri Ôrobindo'', [[サンスクリット]]: श्री अरविन्द ''Srī Aravinda''、フルネーム:オーロビンド・アクロイド・ゴーシュ (Aurobindo Akroyd Ghose) 、[[1872年]][[8月15日]] - [[1950年]][[12月5日]])は、[[インド]]の反英独立運動家、[[宗教家]]、霊性指導者、[[ヨーガ]]指導者、[[インド哲学]]者、詩人、[[神秘思想家]]、インテグラル・ヨーガの創始者。彼の支持者は、彼を神の化身とみなした。
 
オーロビンドは、イギリス支配から脱却するためのインドの初期の自由化運動のリーダーのうちの1人としての短い政治キャリアののち、「神的な生命」に相当する「スーパーマインド(超精神、超心)」と呼ばれるハイレベルの霊的意識を確立することによって地上での生活の進化を促進することを目的とした、「インテグラル・ヨーガ」と呼ばれる新しい霊性の道の実践と進化を主唱した。
 
多くの霊的な詩を含む文学作品をはじめ、古代インドの聖典の広範囲な解説と翻訳を含むインドの文化について、社会的・政治的発展に関して、彼の霊性哲学と実践に関して、数多くの著作を英文で残した。
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オーロビンドの主な哲学的業績の1つは[[ヴェーダーンタ学派|ヴェーダーンタ哲学]]に進化の概念を導入するはずであったが、[[サーンキヤ学派|サーンキヤ哲学]]が既に1世紀前にこのような概念を提唱していた。しかしオーロビンドはダーウィン説とサーンキヤ哲学双方の物質主義への傾倒に異を唱え、物質よりもむしろ精神の進化を重視することを提唱した。
 
彼はアドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学の代表的な思想の一つである不二一元論(アドヴァイタ)Mayavada 幻影論(Mayavada)<ref>Mayaは幻影、vadaは主義といった意味。シャンカラから始まる不二一元論における考え方アド一つ。詳細は前田専学著『ァイェーダーン哲学』を参照学派思われる。 </ref>に異を唱え、言語化不能の絶対た。幻影論は基本存在であると[[世界がどこまでいっても破壊と再生を繰り返す、ブラフマン]]あるいはアブソリュートと、世界多様絶対性とは程遠いも間の過渡的な実体・本質を仮定だとする。しかしオーロビンドはとによっての世界も2つ結合状態の問題(謎)人間も絶対性解決獲得しうると主張した。そして彼はそれを「スーパー・マインド」と呼んだ
 
オーロビンドにおいて世界はブラフマンのInvolution(退縮、内化、内的進化)によって生じる。これによって世界が顕現し、世界の内に魂(soul)が内在化して、徐々に霊的な進化を遂げていく。彼によればこの霊的進化には物質(ex.鉱物)、生命(ex.動物)、精神(人間)といった段階が存在し、それは意識の発展段階でもある。ここにおける意識とはブラフマンもまたアートマン(真の自己)であるとする真理把捉の能力であり、上昇するに連れてその真理へ近づいていく。
スーパー・マインドは、我々の個々の精神と身体などは非常に微細な一部分に過ぎないところの普遍的一元精神である超絶的なサッチダーナンダ<ref>語義は「絶対的実在・叡智・至福」</ref>を世界に提供する能動原理である。
 
このInvolutionが実行されるときに働く原理が「スーパー・マインド」である。これは彼によればサッチダーナンダ(実在・意識―力・歓喜、ブラフマンそのものをも指す)というブラフマンの原理のうち第四番目の原理とされるもので、無限であるブラフマンを限定せずに限定する機能である。論理的に矛盾したこの原理は、ブラフマンの領域における論理に従っているために破綻して見えるのであるとされる。
オーロビンドは、世界をマーヤー(幻影・幻想)として拒絶し、放棄の人生を歩むことこそが[[解脱]]への唯一の道であると考えている因襲的なインド人を批判した。
 
Involutionにおいてスーパー・マインドはブラフマン、つまりサッチダーナンダ(実在・意識―力・歓喜)を我々の世界の物質、生命、魂へ降下させ、自身も精神として降下させる。スーパー・マインドはこの降下を矛盾なしに遂行する。つまりそれは絶対不変にして無謬であるところのブラフマンと、ブラフマンの絶対性からするとありえない相対的なこの世界を媒介する超越的な原理なのである。
 
オーロビンドは、世界を最終的にマーヤー(幻影・幻想)として拒絶し、放棄の人生を歩むことこそが[[解脱]]への唯一の道であると考えている因襲的なインド人幻影論を批判的に乗り越えようと試みた。
 
彼によれば、彼がプルナ (Purna) あるいはインテグラル・ヨーガと呼んだ全ての主要なヨーガ(バクティ、カルマ、1つの哲学としてのタントラなど)の愛好者らが世界を楽しんでいるときこそ、彼らを教化することができるという。