「ハンニバル」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Addbot (会話 | 投稿記録)
m ボット: 言語間リンク 85 件をウィキデータ上の d:q36456 に転記
42行目:
ローマはハンニバルのピレネー越えに気付いたが、ガリアの深い森林のために、すぐに彼の軍勢の所在が分からなくなった。ハンニバルは[[ローヌ川]]を渡るにあたり、騎兵を上流から先発させて対岸のガリア人を掃討し、妨害を排除したが、渡河は危険であり、多くの犠牲が出た。ここでハンニバルの軍勢は歩兵・騎兵あわせて 46,000 まで減った。戦象も 30 頭は健在だったようである。この渡河の際、ローヌの下流を巡回していたハンニバルの騎兵 500 が、ハンニバル軍を探索するローマ騎兵 300 と戦闘になった。索敵していたローマの[[執政官]]、[[プブリウス・コルネリウス・スキピオ]]が現地に駆けつけたが、彼の到着の3日も前にハンニバルは渡河を終え、[[アルプス山脈]]に向かっていた。
 
このハンニバルのアルプス山脈越えのルートは詳しくは分かってはおらず、現在でも歴史家の間で意見が異なっている。ともあれ、ハンニバルは山中のガリア人を驚かせるために、戦象を先頭にして行軍をはじめた。途中で遭遇した[[ガリア人]]には「敵はローマ人だ」と伝え、基本的には金品を贈って懐柔した。雪が降るほどの寒さや疲労、狭い山道と崖など、行軍は困難をきわめたが、彼らはアルプスを越えた。イタリアに到着した時点で、ハンニバルの軍勢は歩兵 20000 、騎兵 6000 にまで減った<ref>「ローマ人の物語」より、ハンニバル自身の記録による。</ref>。
 
ついにハンニバルは[[イタリア半島]]へ進軍し、ローマの元老院を驚愕させる。[[第二次ポエニ戦争]](別名、ハンニバル戦争、[[紀元前218年]] - [[紀元前201年]])の始まりであった。