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|出生 = 生年不詳
|出身地 = [[エン州|兗州]] [[陳留郡]] [[圉県]]
|死去 = [[建安 (漢)|建安]]
|死没地 =
|ピン音 = Gao Gan
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}}
'''高 幹'''(こう かん、? - [[建安 (漢)|建安]]
== 正史の事跡 ==
=== 初期の事跡 ===
袁紹配下。上記のように袁紹と血縁にあった事から重用された。[[初平]]2年([[191年]])、袁紹の命により、[[荀シン|荀諶]]・[[張導]]・[[郭図]]らと共に使者として[[冀州]][[牧]][[韓馥]]の下に赴き、冀州を袁紹に譲らせた。
=== 関西進攻 ===
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=== 反逆と最期 ===
その後しばらくは曹操に臣従したが、建安10年([[205年]])に曹操が[[幽州]]の[[烏桓]]討伐を開始すると反逆し、上党[[太守]]を捕虜として壺関を閉鎖した。彼は、
『三国志』魏書[[荀イク|荀彧]]伝によれば、高幹の最終目的は鄴の襲撃だったようである。だが鍾繇・張既・[[杜畿]]らは、巧みな政略を駆使して高幹を撃破し
=== 人物像 ===
高幹は袁紹の甥ではあったが、『三国志』魏書高柔伝注に引く[[謝承]]『後漢書』によれば、才能と野心に溢れ、文武に優れた人物だったとされており、単に縁故のみで成り上がった人物ではない事が窺える。その一方で[[仲長統]]は、高幹に
高幹は、2度も曹操陣営の背後を衝いて危機に陥れており、しかも、建安7年(202年)の関西進攻・同10年(205年)の上党反逆ともに、事前の準備は周到であった。しかし、曹操の後方に控えていた人材層も相応に厚く、高幹の野心の実現は阻まれた。
== 物語中の高幹 ==
小説『[[三国志演義]]』では、正史での派手な活躍に比べると、かなり地味な
== 参考文献 ==
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