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== 前史 ==
{{main|:en:Causes of the Dutch Revolt}}
15世紀にネーデルラント(現在の[[ベネルクス]])は[[ブルゴーニュ公国]]の一部となる([[ブルゴーニュ公爵領ネーデルラント]])。この頃のネーデルラントは毛織物生産により経済的先進地となり、[[ヘント]](ガン)、[[アントウェルペン]]などの富裕な都市を生みだしている。しかし[[1477年]]にブルゴーニュの[[シャルル (ブルゴーニュ公)|シャルル豪胆公]]が戦死すると、一人娘の[[マリー・ド・ブルゴーニュ|マリー女公]]は後の[[神聖ローマ皇帝]][[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]と結婚し、ネーデルラント地域は[[ハプスブルク家]]の所領となった。
 
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== 戦史 ==
{{main|{{仮リンク|オランダ革命|en|Dutch Revolt}}}}
 
=== 初期の対立(1555年-1572年)===
[[1556年]]、[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]は息子の[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]にスペイン王位を譲位した。カール5世の治世は、その確固たる政策にもかかわらず、ネーデルラントの社会変革や宗教改革の影響を受けた。それでも、カール5世はネーデルラントで生まれ育ったために[[フラマン語]]、[[フランス語]]、[[スペイン語]]を流暢に話し、[[ドイツ語]]も少し話すことができたが、フェリペ2世は[[スペイン]]で育ったためにフラマン語もフランス語も話すことができなかった。フェリペ2世の治世下では、増税や[[カルヴァン主義]]の拡大、中央集権の強化によって“緊張状態”が強まっていった。さらに、フェリペ2世の妥協しない姿勢によって、“緊張状態”は独立戦争へと向かっていくこととなる。
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[[画像:Antonio Moro - Willem I van Nassau.jpg|200px|thumb||オラニエ公ウィレム1世]]
ネーデルラントではプロテスタントの[[改革長老教会|カルヴァン派]]などが広まっていたが、カトリックのスペイン王[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]は厳しい[[異端審問]]を実施してプロテスタントを弾圧した。このためネーデルラント諸州は[[1568年]]、有力貴族[[オランジュ|オラニエ]]公[[ウィレム1世 (オラニエ公)|ウィレム1世]](1533年 - 1584年)を先頭に、スペインに対する反乱を起こした。
 
{{仮リンク|ライデン包囲戦|en|Siege of Leiden}}([[1573年]] - [[1574年]])。
 
[[画像:2984.b.jpg|200px|thumb|パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼ]]
[[1576年]][[11月4日]]に{{仮リンク|アントワープ陥落|en|Sack of Antwerp|label=アントワープが陥落}}すると、[[11月8日]]に{{仮リンク|ヘントの和約では|en|Pacification of Ghent}}が締結されてカトリックとプロテスタントの融和が図られたが、[[1579年]]には北部7州で[[ユトレヒト同盟]]が結ばれ、スペインとの対決姿勢を見せた。南部の州はカトリック派のパルマ公[[アレッサンドロ・ファルネーゼ (パルマ公)|アレッサンドロ・ファルネーゼ]]に制圧されていき、[[1585年]]にアントウェルペンが陥落した。[[南ネーデルラント]]はカトリックの勢力が強く、スペインの支配下に留まることになった(おおよそ現在の[[ベルギー]]、[[ルクセンブルク]])。一方、オラニエ公ウィレムもスペインによって暗殺されるが(1584年)、[[1581年]]、プロテスタント側はフェリペ2世の統治権を否認する布告を出した。
 
=== 独立 ===
1600年頃までに北部7州は[[ネーデルラント連邦共和国]]として実質的に独立を果たした。共和国が成立してもスペインとの戦争は終わらなかった。ネーデルラント連邦共和国は[[1602年]]、連合東インド会社([[オランダ東インド会社]])を設立してアジアに進出し、[[ポルトガル王国|ポルトガル]](1580年からスペインと[[同君連合]])との{{仮リンク|オランダ・ポルトガル戦争|en|Dutch–Portuguese War}}([[1602年]] - [[1663年]])で[[香辛料貿易]]を奪取して、世界の海に覇を唱えた。このため貿易の富が[[アムステルダム]]に流入して、[[17世紀]]の共和国は黄金時代を迎えることとなる。[[1609年]]にはスペインとの{{仮リンク|12年停戦協定|en|Twelve Years' Truce}}が結ばれた。
 
[[ドルト会議]]([[1618年]] - [[1619年]])で[[レモンストラント派]]の意見が斥けられた。
 
=== 三十年戦争 ===
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[[1621年]]に停戦が終わると、独立戦争はヨーロッパ全体を巻き込んだ[[三十年戦争]]([[1618年]] - [[1648年]])にもつれ込んだ。三十年戦争で[[ブレダ_(オランダ)|ブレダ]]はスペイン軍に2度にわたり蹂躙された。[[1624年]] - [[1625年]]、ロス・バルバセス候[[アンブロジオ・スピノラ]]率いる[[スペイン]]軍が侵攻し、[[マウリッツ (オラニエ公)|オラニエ公マウリッツ]]率いるオランダ軍が守る[[ブレダ_(オランダ)|ブレダ]]を包囲した('''[[:en:Siege_of_Breda_(1624)|第三次ブレダの戦い]]''')。有名な[[ディエゴ・ベラスケス]]の名画『[[ブレダの開城]]』には、攻城戦を指揮した[[アンブロジオ・スピノラ]]にブレダ守備隊の司令官であった[[:en:Justinus van Nassau|ユスティヌス・ファン・ナッサウ]]([[ウィレム1世 (オラニエ公)|オラニエ公ウィレム1世]]の庶子)が城門の鍵を渡してスペインに降伏する場面が描かれている。[[1637年]]、[[フレデリック・ヘンドリック (オラニエ公)|オラニエ公フレデリック・ヘンドリック]]による'''[[:en:Siege_of_Breda_(1637)|第四次ブレダの戦い]]'''によってブレダは解放された。
 
[[1648年]]、三十年戦争を終結させた[[ヴェストファーレン条約]]で、ブレダは正式に[[ネーデルラント連邦共和国]]に加わった。ヴェストファーレン条約の一部である{{仮リンク|ミュンスター条約 (ヴェストファーレン条約)|en|Peace of Münster|label=ミュンスター条約}}でスペインはネーデルラント連邦共和国の独立を正式に承認し、ようやく80年にわたる戦争が終結した。
 
== 脚注 ==