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[[イタリア共産党]]の党内抗争において、[[アントニオ・グラムシ]]を支持し、彼をイタリア共産党書記長に据える。
 
レーニンの晩年から政治局で[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]、カーメネフと同盟を結び、三人組([[トロイカ]])を組んで[[レフ・トロツキー|トロツキー]]と対立し、結果としてトロツキーの失脚と国外追放に関与することになる。[[1924年]]にレーニンが死ぬと、ジノヴィエフは党の最高実力者の一人となるが、その一方でスターリンが書記長として権力を集中していることに危惧を覚え、[[1925年]]レニングラードの党組織を中核とした「新しい反対派」を組織する。第14回共産党大会では、スターリンの「[[一国社会主義]]論」に反対、党の非民主的な指導と官僚主義的統制を批判し、対立していたトロツキー及びトロツキー派と「合同反対派」を結成した。しかし、時既に遅く[[1926年]]政治局員とコミンテルン議長を解任され、党を除名された。翌[[1927年]]第15回党大会で自己批判し、[[1928年]]復党する。カザン大学学長、共産党機関誌「ボリシェヴィーク」編集部員を務めるが、[[1932年]]再度党を除名、[[カルーガ]]に追放される。[[1933年]]復権しモスクワに帰還を許可され、ソ連消費組合中央連合幹部会員に選出される。[[1934年]]第17回党大会の演説ではスターリンを称えるまで落ちぶれた。
 
しかし、ついに[[大粛清]]はジノヴィエフとその周辺にまで及ぶことになる。1934年12月に[[セルゲイ・キーロフ]]が暗殺された事件をめぐり、ジノヴィエフは、事件に連座したとして党を除名の上、逮捕された。[[1935年]]に禁固10年の判決を受け、[[ウラル山脈|ウラル]]の政治犯収容所に入る。翌[[1936年]]、「[[モスクワ裁判]]」でジノヴィエフは1932年にスターリンなど党指導部に対するテロが計画されたという「合同本部」事件で告発され、十月革命の『裏切り』の件まで追及された。ジノヴィエフは[[拷問]]を受けた上、スターリンに生命の保証を約束され有罪を認めたが、結局、[[1936年]][[8月24日]]にカーメネフら15人と共に死刑判決を受けた。その時、「スターリンは約束したんだ、スターリンは…」と口走り、カーメネフに連れられて退廷させられた。