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[[イタリア共産党]]の党内抗争において、[[アントニオ・グラムシ]]を支持し、彼をイタリア共産党書記長に据える。
レーニンの晩年から政治局で[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]、カーメネフと同盟を結び、三人組
しかし、ついに[[大粛清]]はジノヴィエフとその周辺にまで及ぶことになる。1934年12月に[[セルゲイ・キーロフ]]が暗殺された事件をめぐり、ジノヴィエフは、事件に連座したとして党を除名の上、逮捕された。[[1935年]]に禁固10年の判決を受け、[[ウラル山脈|ウラル]]の政治犯収容所に入る。翌[[1936年]]、「[[モスクワ裁判]]」でジノヴィエフは1932年にスターリンなど党指導部に対するテロが計画されたという「合同本部」事件で告発され、十月革命の『裏切り』の件まで追及された。ジノヴィエフは[[拷問]]を受けた上、スターリンに生命の保証を約束され有罪を認めたが、結局、[[1936年]][[8月24日]]にカーメネフら15人と共に死刑判決を受けた。その時、「スターリンは約束したんだ、スターリンは…」と口走り、カーメネフに連れられて退廷させられた。
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