「トイトブルク森の戦い」の版間の差分

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「トイトブルク森」の場所に関する唯一の情報源は、長らくローマの歴史家[[タキトゥス]]の著作『[[ゲルマニア (書物)|ゲルマニア]]』にある「'''テウトブルギエンシス'''(Teutoburgiensis)の隘路で」という記述のみであった。[[アルミニウス (ゲルマン人)|アルミニウス]]の記念像を建てる際にトイトブルクの森の場所を[[デトモルト]]と推測し、彫像を建てる場所として同地が選ばれた逸話がある(なお、1875年に記念像は建立)。
 
その後、イギリスのアマチュア考古学者トニー・クランなどの調査によって、{{仮リンク|ブラームシェ|en|Bramsche|label=ブラーケ}}という都市の一地域である{{仮リンク|カルクリーゼ|ende|Fundregion Kalkriese}}が実際の戦場であったことが明らかになった。より詳細に言うと、[[ニーダーザクセン州]]の[[オスナブリュック]]から北へ数十キロの場所である。ここは、彫像が建てられたデトモルトから50km程離れた場所である。
 
一次的な発掘は、ウォルフガング・シュリューターなどの考古学者チームにより行われたが、その発掘の成果が明らかになるにつれて、新たな基金が創設され、更なる発掘が進められている。