「演劇改良運動」の版間の差分

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[[鹿鳴館]]時代の1886(明治19年) 、[[第1次伊藤内閣]]の意向もあって、[[末松謙澄]]、[[渋沢栄一]]、[[外山正一]]をはじめ、政治家、経済人、文学者らが演劇改良会を結成。文明国の上流階級が見るにふさわしい演劇を主張し、[[女形]]の廃止([[女優]]を出演させる)、花道の廃止、劇場の改良、[[芝居茶屋]]との関係見直しなどを提言した。翌年には、当時[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]だった[[井上馨]]の邸宅に設けた仮設舞台で[[明治天皇]]による天覧歌舞伎を実現させ、團十郎、[[尾上菊五郎 (5代目)|菊五郎]]、[[市川左團次 (初代)|左團次]]をはじめとする当時の[[看板役者]]が一堂に会し『[[勧進帳]]』などをつとめる。これによって、歌舞伎の社会的地位は大いに上った。
 
このような追い風を受け、1887(明治20)年1月、演劇改良会は法人の創設を目指すことを決めた。[[福地桜痴]]が定款を書き、渋沢、[[益田孝]]、[[岩崎弥太郎]]、[[大倉喜八郎]]ら財界人が賛同した。この時に、二十万円の建築費を充てて約六百坪の敷地に二千人収容の大劇場を建築するという壮大な案が示された。一方では外部からの作品提供をめざして、[[川尻宝岑]]、[[依田学海]]合作の脚本「吉野拾遺名歌誉」の上演をそれぞれ企画したが、いずれも実現に至らず、肝心の團十郎の新史劇が難解すぎて観客の支持を得ず、[[仮名垣魯文]]に「[[活歴物]]」と揶揄されたり、さらに末松が天覧歌舞伎の「勧進帳」上演に際し、長唄の文言を改正しようとして、同志の福地に新聞紙上で批判される事件が起こるなど、内部でもまとまりを欠く有様であった。さらに座元の反対や、後援者たる井上の失脚も災いして運動は中途半端のままに終わった。
 
== 運動の影響 ==