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{{基礎情報 君主
|人
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|画像
|画像
|在位 =[[1815年]][[3月16日]] - [[1840年]][[10月7日]]<br>[[1839年]][[4月19日]] - [[1840年]][[10月7日]]([[リンブルフ|リンブルフ公]])
▲|画像説明 = [[ヨセフ・パエリンク]]画、[[1819年]]<br>([[アムステルダム国立美術館]]蔵)
|別号 =
▲|戴冠 =
|生地 ={{NLD1581}}、[[デン・ハーグ]]
|次代 = [[ウィレム2世 (オランダ王)|ウィレム2世]]▼
|没地 ={{PRU1803}}、[[ベルリン]]
|継承者 =
|継承形式 =
|子女
|王室歌 =
▲|出生日 = {{生年月日と年齢|1772|8|24|no}}
|サイン =
▲|死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1772|8|24|1843|12|12}}
▲|埋葬日 =
▲|埋葬地 = [[オランダ]]、[[デルフト]]、[[:en:Nieuwe Kerk (Delft)|新教会]]
▲|実名 = {{Lang|nl|Willem Frederik}}<br />ウィレム・フレデリック
▲|王朝 =
▲|王室 = [[オラニエ=ナッサウ家]]
▲|母親 = [[ヴィルヘルミーネ・フォン・プロイセン (1751-1820)|フリーデリケ・ゾフィー・ヴィルヘルミーネ・フォン・プロイセン]]
▲|配偶者 = [[ヴィルヘルミーネ・フォン・プロイセン (1774-1837)|フリーデリケ・ルイーゼ・ヴィルヘルミーネ・フォン・プロイセン]]
▲|子女 = [[ウィレム2世 (オランダ王)|ウィレム2世]]<br />[[フレデリック・ファン・オラニエ=ナッサウ (1797-1881)|フレデリック]]<br />[[パウリーネ・ファン・オラニエ=ナッサウ|パウリーネ]]<br />[[マリアンネ・ファン・オラニエ=ナッサウ|マリアンネ]]
▲|信仰 = [[キリスト教]][[改革派教会]]
}}
{{commons&cat|Willem I der Nederlanden|William I of the Netherlands|ウィレム1世}}
'''ウィレム1世'''({{Lang-nl|'''Willem I'''}}、[[1772年]][[8月24日]] - [[1843年]][[12月12日]])は、初代[[ネーデルラント連合王国|オランダ]][[オランダ君主一覧|国王]](在位:[[1815年]][[3月16日]] - [[1840年]][[10月7日]])および[[ルクセンブルク]][[ルクセンブルク大公|大公]](フランス語名'''ギヨーム1世'''、{{Lang|fr|Guillaume I}})である。
かつて10[[ギルダー]]紙幣に肖像が使用されていた。
[[1795年]]、[[フランス第一共和政|フランス]]軍の侵攻により共和国が崩壊すると、父に従って[[グレートブリテン王国|イギリス]]に亡命した。[[1799年]]にはイギリス軍に加わって、フランスの属国となったオランダ([[バタヴィア共和国]])に侵攻したが撃退された。父ウィレム5世は亡命中の[[1802年]]にオラニエ公の称号(祖父[[ウィレム4世 (オラニエ公)|ウィレム4世]]以降は名目のみとなっていた)とともに家督を譲り、[[1806年]]にドイツで死去した。
プロイセン軍に参加していたウィレムは[[1806年]]のイエナ・アウエルシュタット戦役のうちの[[アウエルシュタットの戦い]]で戦ったのち、その
[[1813年]]にフランス軍の撤退後、オランダに帰還し、臨時政府から「君主」の称号を受けた。[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]失脚後の[[1815年]]、[[ウィーン会議]]により、[[18世紀]]まで共和制を布いていたオランダと[[ハプスブルク=ロートリンゲン家|ハプスブルク家]]の領土だった[[南ネーデルラント]]を併せて[[立憲君主制|立憲君主国]]オランダ王国([[ネーデルラント連合王国]])が成立すると、初代国王に即位した。また、[[ナッサウ家]]の古くからの所領であった[[ラインラント]]の[[ナッサウ]]、ディレンブルク、ディーツなどの所領が[[プロイセン王国|プロイセン]]領に併合されるのと引き換えに、[[ルクセンブルク大公]]を兼ねることとなった。
ウィレム1世は「開明的専制君主」「遅れてきた啓蒙専制君主」「商人王」などと評される。彼は保守派のブルジョワジーや旧都市貴族を支えとして政治権力を独占していた。南北[[ネーデルラント]]は20年に及ぶ動乱のもとで経済活動が混乱しており、その建て直しが求められていた。そのため、ウィレム1世は商工業の積極的な振興に力を注いだ。また、200年にわたって分かたれてきた南北ネーデルラントの統合を推し進めようとした。しかし統合は破綻し、[[1830年]]に[[フランス7月革命]]の余波で[[ブリュッセル]]でも暴動が起こり、[[ベルギー独立革命]]へと発展した。結果、[[ベルギー]]は独立して[[ザクセン=コーブルク=ゴータ家]]の[[レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド1世]]を国王を迎えた。ウィレム1世は失意のうちに[[1840年]]、退位して息子の[[ウィレム2世 (オランダ王)|ウィレム2世]]に王位を譲り、[[1843年]]に死去した。
* [[フランス革命戦争]]
{{オランダ君主|ネーデルラント国王}}
{{先代次代|[[ルクセンブルク大公]]|1815年 - 1840年|―|[[ウィレム2世 (オランダ王)|ギヨーム2世]]}}
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