「大野倫」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
50行目:
{{by|1999年}}の[[第71回選抜高等学校野球大会|第71回センバツ大会]]では、同県の[[沖縄尚学高等学校・附属中学校|沖縄尚学]]が決勝戦に進出するが、前日の準決勝・[[PL学園中学校・高等学校|PL学園]]で延長12回、200球以上投げたエース・[[比嘉公也]](現・沖縄尚学野球部監督)を登板させず、控え投手の照屋正悟が登板。結果、決勝の[[茨城県立水戸商業高等学校|水戸商]]では7-2と快勝し、念願の沖縄県勢初の全国制覇を果たした。一方で、{{by|2010年}}に沖縄県勢として初の春夏連覇([[第82回選抜高等学校野球大会|第82回センバツ大会]]・[[第92回全国高等学校野球選手権大会|第92回高校野球選手権大会]])を達成した[[興南中学校・高等学校|興南]]は、[[島袋洋奨]]を軸に三本柱で大会に臨んだものの、島袋が中1日で4連投するなど過酷な登板はなくなっていない<ref name="yomiuri_20101215"/>。
 
=== [[沖縄水産高校野球部監督・栽弘義]]への思い ===
大野は大阪桐蔭高校との決勝戦敗退に関して、当時涙を流しながらも「悔しさは全く無く『やっと終わった』という安堵感が強かった」と述べていた。[[栽弘義]]監督の起用によって投手生命を奪われたが、「これは僕と栽監督の信頼関係で成り立った話なので」と栽に対して批判する気持ちは持っておらず、さらに「栽監督がもし勝負師に徹していたのならば、(優勝するために)スパッと切って投げさせなかったと思う」とコメントしている。そして「栽監督が『ここまで来たのだから、勝ち負けに拘らず最後まで行こう』と(大野に)温情を入れてしまい、栽監督が『栽先生』になったから、全国制覇を逃してしまったのかも」と述懐している<ref>[http://www.youtube.com/watch?v=MksZYgVTEWU&feature=related 【懐かしの甲子園】 沖縄水産 大野倫]</ref>。栽が[[2007年]]に逝去した際には、告別式で感謝の言葉を伝えていた。大野の肘には今でも栽にマッサージをしてもらっていた際にできた傷跡が残っており、大野はこれが監督との一番の思い出であると語っていた。
 
== 詳細情報 ==