「大友氏」の版間の差分

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|支流=[[田原氏]](武家)<br/>[[堤氏]](武家)<br/>[[戸次氏]](武家)<br/>[[志賀氏]](武家)<br/>[[入田氏]](武家)<br/>[[託磨氏]](武家)<br/>[[臼杵氏]](武家)<br/>[[田北氏]](武家)<br/>[[吉弘氏]](武家)<br/>[[立花氏]](武家)<br/>[[木付氏]](武家)<br/>[[清田氏]](武家)
}}
'''大友氏'''(おおともし)は、[[鎌倉時代]]から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]にかけて、九州の[[豊後国]](現[[大分県]])を本拠とした一族。豊後・[[筑後国|筑後]]など北九州を支配した[[守護]]職・[[守護大名]]で、戦国時代には[[戦国大名]]に成長し、最盛期には豊後・筑後に加え[[豊前国|豊前]]・[[肥前国|肥前]]・[[肥後国|肥後]]・[[筑前国|筑前]]の6ヶ国と日向・伊予の各半国を領したが、[[豊臣政権]]期に[[改易除封]]された。[[通字]]は主に「'''親'''」(ちか)、19しかし戦国時代は足利将軍家よりの偏諱である「'''義'''」(よし)をもちいる。江戸時代の23代[[大友義|義]]以降は「'''義'''」(よし)通字としている
 
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さらに対外戦争でも、[[元亀]]元年([[1570年]])の[[今山の戦い]]で[[龍造寺隆信]]に、[[天正]]6年([[1578年]])の[[耳川の戦い]]で[[島津義久]]に大敗を喫してしまった。特に後者の大敗では多くの有力武将を失う結果となり、それまで大友氏の幕下にあった肥前・筑前・筑後の[[国人]]領主が、[[龍造寺氏]]や[[秋月氏]]を筆頭に次々と謀反の反旗を翻し、大友氏は危機的状況に陥る。天正12年([[1584年]])、龍造寺隆信が島津氏の前に戦死すると、筑後方面で巻き返しを図るが、今度は[[島津氏]]の侵攻を受けることとなり、天正14年([[1586年]])には大友家の本国である豊後にまで侵攻され、旧府内の町は焼け野原になることとなった。
 
しかし、宗麟は当時の天下人である[[豊臣秀吉]]に支援を要請して自ら臣従したことにより、秀吉の[[九州征伐]]が開始されることとなり、島津氏は[[豊臣氏]]の前に敗れ、大友家は豊臣政権下で存続することとなった。このとき、宗麟の嫡男である[[大友義統|義統]]は秀吉より豊後1国を安堵された(宗麟自身にも日向一国が安堵されるもこれを辞退)。義統は秀吉から偏諱でる「吉」を許され吉統と名を改める。この時家臣であった立花統虎(のちの[[立花宗茂]])が独立し豊臣の大名となる。
 
また、この時期に'''[[毛利家]]'''とも親しくなり'''[[毛利秀包]]'''(筑後久留米)の正室に宗麟女がなる(子孫有)。
しかし、宗麟の死後、義統は[[文禄の役]]における敵前逃亡を咎められ、[[文禄]]2年([[1593年]])に秀吉の命令で[[改易]]された。義統は秀吉死後の[[慶長]]5年([[1600年]])に起こった[[関ヶ原の戦い]]で、西軍総大将・[[毛利輝元]]に支援されて挙兵して豊後に侵攻し、[[細川忠興]]の領地となっていた豊後の奪回を計るが、[[石垣原の戦い]]において[[黒田孝高]](黒田如水・福岡県)の軍に敗れて降伏した。
 
しかし、宗麟の死後、統は[[文禄の役]]における敵前逃亡を咎められ、[[文禄]]2年([[1593年]])に秀吉の命令で[[改易]]された。統は秀吉死後の[[慶長]]5年([[1600年]])に起こった[[関ヶ原の戦い]]で、西軍総大将・'''[[毛利輝元]]'''に支援されて挙兵し海路、豊後に侵攻し、東軍[[細川忠興]]の領地となっていた豊後旧領を計画すが、[[石垣原の戦い]]において[[黒田孝高]](黒田如水・福岡県)の軍に敗れて降伏した
 
しかし[[石垣原の戦い]]において[[黒田孝高]](黒田如水・福岡県)の軍に敗れて降伏した。
 
== 江戸時代 ==
義統の没後、嫡子[[大友義乗]]は、早くより父のもとを離れ徳川家に預けられていたので、戦後は[[旗本]]として取り立てられるが、。しかしその子[[大友義親|義親]]の代になって無嗣断絶する。

しかし、肥後にあった義乗の異母弟[[松野正照]]の子[[大友義孝|義孝]]をもって家門は再興され、[[大身]][[旗本]]・[[高家 (江戸時代)|高家]]として存続した。
 
== 歴代当主 ==