「久留米城」の版間の差分

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安海 (会話 | 投稿記録)
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== 沿革 ==
[[室町時代]]後期の永正年間([[1504年]] - [[1521年]])にこの地の土豪が篠原城と称した砦程度のものを築いたのが始まりと言われる。[[天文 (元号)|天文]]年間([[1532年]] - [[1555年]])には御井郡司の某が修築したとの記録がある。この時代は[[豊後国]]の[[大友義鎮|大友宗麟]](筑後守護でもあった)と[[肥前国]]の[[龍造寺隆信]]が争っており、この地は双方の勢力が拮抗する場所で度々城主が入れ替わった。
 
== 中世(豊臣時代) ==
[[天正]]15年([[1587年]])[[豊臣秀吉]]が[[九州]]を平定すると、大友宗麟の娘婿である'''[[毛利秀包]]'''(羽柴久留米侍従)が13万石で筑後久留米に封じられ堀を掘削し石垣を積み天守を置くなど、織豊期城郭への改築を行った。
 
秀包は[[慶長]]5年([[1600年]])[[関ヶ原の戦い]]で西軍についたため戦後[[改易]]となった。