「マクセンティウス」の版間の差分

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父マクシミアヌスは[[285年]]に皇帝となり、マクセンティウスはいずれ皇帝の座を継ぐものと見なされて育った。しかし、父と[[ディオクレティアヌス]]帝とが共同統治している期間には、マクセンティウスに特別な戦歴や政治的な経歴は見当たらない。詳しくは不明だが早い時期に、副帝[[ガレリウス]]の娘ウァレリア・マクシミラと結婚し、後に長男ウァレリウス・ロムルス(295年頃 - 309年)と次男(名前は不明)の2人の息子を持つ。
 
父マクシミアヌス帝とディオクレティアヌス帝は[[305年]]に揃って退位し、それまで[[テトラルキア]](四分統治)の[[副帝]]だった[[コンスタンティウス・クロルス]]と[[ガレリウス]]とが[[アウグストゥス (称号)|正帝]]になった。後継者候補には前皇帝の息子マクセンティウスとコンスタンティウス帝の息子[[コンスタンティヌス1世|コンスタンティヌス]]とがいるにもかかわらず、新しい副帝に[[フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス]]と[[マクシミヌス・ダイア]]とが就任した。[[ラクタンティウス]]の「Epitome」によると、ガレリウス帝はマクセンティウスを嫌っており、彼を後継者から外すようディオクレティアヌス帝に働きかけたという。また、ディオクレティアヌス帝自身もマクセンティウスは皇帝として軍を率いるには能力不足と考えていたのだろう。結局、マクセンティウスは[[ローマ]]から数[[マイル]]離れた地所に隠居することになった。
 
翌[[306年]]にコンスタンティウス・クロルスが死去した。彼の息子コンスタンティヌスは皇帝に名乗りを上げ、結果的に副帝となることをガレリウス帝に認めさせた。コンスタンティヌスの成功が先例となり、同じ年の後半にマクセンティウスも継承問題を起こすこととなる。