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'''ウースチー・ナド・ラベム''' ([[チェコ語]]:'''Ústí nad Labem'''、[[ドイツ語]]:Aussig an der Elbe)は、[[チェコ]]・[[ウースチー州]]の都市。ドイツ語の読みはアウ・アン・デア・エルベ。画家[[アントン・ラファエル・メングス]]はこの町の出身である。
 
== 歴史 ==
ウースチー・ナド・ラベムは993年頃貿易中心地として名前が記載された。市は13世紀後半に[[ボヘミア]]王[[オタカル2世]]によってつくられた。1423年、[[神聖ローマ皇帝]][[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジギスムント]]から、[[ザ]]の守備隊とともに町を征服したマイセン辺境伯フリードリヒ1世に対して誓約がされた。1426年6月16日、町はわずか25,000人の手勢の[[フス派]]軍に包囲され、救援のため派遣された7万人のドイツ軍が大量殺戮のうえ大敗した。町は翌日襲撃され略奪にあった。3年あまり疲弊したままほうって置かれ、1429年に町は再建された。[[三十年戦争]]と[[七年戦争]]では被害を受けた。
ウースチーは、1813年8月29日と30日に起きた、[[フランス第一帝政|フランス]]軍([[ドミニク・ヴァンダンム]]指揮)対[[オーストリア帝国]]・[[プロイセン王国]]連合軍の戦いの場所から遠くない。フランス軍が負け、ヴァンダンムは10,000人の兵士らと共に捕虜となった。