「フェリックス・クライン」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
KLBot2 (会話 | 投稿記録)
m ボット: 言語間リンク 38 件をウィキデータ上の d:Q76641 に転記
Kasei-san (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
3行目:
 
== 略歴 ==
[[プロイセン王国]]政府の首長秘書だった父のもと[[デュッセルドルフ]]に生まれ、[[ライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボン|ボン大学]]にてプリュッカーの指導により数学を学んだ<ref name="math"> 日本数学会編、『岩波数学辞典 第4版』、岩波書店、2007年、項目「クライン」より。ISBN 978-4-00-080309-0 C3541 </ref>。この時代のヨーロッパは緊張が続いており、プロイセンが[[フランス]]との[[普仏戦争]]に至ったときは衛生兵としてプロイセン軍に従事した。ここで後に[[教育大臣]]となる[[フリードリヒ・アルトホフ]]と出会っている。
 
戦争の後の1872年、23歳という異例の若さで[[フリードリヒ・アレクサンダー大学エアランゲン=ニュルンベルク|エアランゲン大学]]の教授に就任することになった<ref name="math"/>[[ソフス・リー|リー]]とジョルダンから[[群論]]を学んで[[幾何学]]へ応用し、この間にときの就任講演として彼の大きな業績のひとつであるエルランゲン・プログラムを考案しが企画され<ref name="math"/>

[[1875年]]には[[ミュンヘン工科大学]]教授に就き、また哲学者[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル]]の孫アンネ・ヘーゲルと結婚した。
 
[[1880年]]には[[ライプツィヒ大学]]で教鞭をとるようになり、翌[[1881年]]初頭、フランスの[[科学アカデミー (フランス)|科学アカデミー]]が[[1878年]]に提示した[[微分方程式]]に関するコンクールの問題についてポアンカレが発表した論文を読んだことで彼と交流を始める。ポアンカレとの文通は最初は温和なものだったが、次第に皮肉の混じったものになっていき、最終的にはお互いの国にまで批判が及ぶようなものになり、[[1882年]]にポアンカレが書いた手紙を最後に文通は途切れることになる。この2人の対立はお互いに相当大きな負担になったといわれる。
 
最後の手紙の数か月後、クラインは[[うつ病]]にかかり休養を余儀なくされる。この後クラインは研究よりも教育に力を入れるようになり、ヒルベルトや[[マックス・デーン]]などの数学者を育てた。このときにもクラインのポアンカレへの反感は消えておらず、ヒルベルトをポアンカレの元に留学させたときも「ポアンカレは大した結果がない場合でもとにかく論文を書きたがるが、パリでそういう批判は聞かないか」とヒルベルトに尋ねたりし、ポアンカレが解けなかった予想([[ポアンカレ予想]])をデーンが解いたと思い込んだときには「先を越される前に早く発表しろ」と急かしたりしたという。
 
また数学雑誌「Mathematisches Annalen」を刊行し、教育改革にも取り組んだ<ref name="math"/>。
 
[[1885年]]にロンドン[[王立協会]]の外国人会員となる<ref>{{FRS |code = NA5396 |title = Klein; Christian Felix (1849 - 1925) |accessdate = 2011-12-12 }}</ref>。[[1886年]]に[[ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン|ゲッティンゲン大学]]教授に就任。[[1912年]]に[[コプリ・メダル]]を受けている。[[1913年]]に健康上の理由でゲッティンゲン大学を退職したが、その後数年ほどは自宅で講義を続けていた。ゲッティンゲンにて没。
23 ⟶ 27行目:
彼のプログラムに従わなかったものとして[[リーマン幾何学]]がある。この幾何学では空間の普遍性を仮定していないため一般に可能な変換は恒等変換だけになってしまう。この不備はクラインの後に修正された。この幾何学の分類という問題は彼の教え子であったヒルベルトの[[公理系]]による幾何学を含めた数学の諸分野の体系付けという新たな道にも影響を与えることになる。
 
クラインは[[カール・フリードリヒ・ガウス]]や[[ベルンハルト・リーマン]]の創始した[[多様体論]]にも大きな功績を残している。彼は[[微分幾何学]]の分野では[[多様体]]に持たせる[[幾何構造]]は剛体変換を可能にすることができる自然なものにすべきだとし(これは前述のエアランゲン・プログラムで扱うことができる「幾何学」である)、[[2次元多様体]]は全て3種類の自然な幾何構造を持つと信じた。クラインは正しさを確信していたが、結局証明はできなかった。これの完全な証明は[[1907年]]にポアンカレと[[パウル・ケーベ]]によってそれぞれ独立になされ、[[一意化定理]]と呼ばれている。これは[[幾何化予想]]などその後の幾何構造の研究に大きな影響を与えた。また1882年の著書「代数関数とその積分に関するリ ーマンの理論」にて[[複素関数]]を[[幾何学]]へと応用し、[[複素多様体論]]を開拓した<ref name="math"/>
 
さらに位相幾何学の分野では[[向き|向き付け不可能]]な[[閉曲面]]を初めて発見した。この多様体は[[クラインの壺]]といわれている。なお「クライン」にはドイツ語で「小さい」という意味があることからクラインの壺のことを「小さい壺」と書いた本がしばしば見受けられる。これはトポロジーでは大きさを考えないことに掛けたジョークである。
44 ⟶ 48行目:
 
== 関連項目 ==
* [[エルランゲン・プログラム]]
* [[変換群]]
* [[クライン群]]
* [[クラインの四元群]]
* [[群論]]
* [[幾何学]]
 
== 外部リンク ==