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[[東京府]][[東京市]][[浅草|浅草区]](現・[[東京都]][[台東区]]浅草)生まれ。[[薩摩国|薩摩]][[士族]]の血を引く。祖父は[[西南戦争]]で[[西郷隆盛]]側に立って戦い討ち死にした。幼少期に父と死別、母とは生別、兄弟は離散して親戚に預けられ、小学校を出ると[[別府市|別府]]のホテルで給仕として働いた。たまたま訪れた客の海軍士官から「偉くなりたいなら上京して勉強せよ」と激励され、苦学の末東京帝大法学部に入学する。[[高等文官試験]]にパスし、卒業後の[[1927年]][[内務省 (日本)|内務省]]に入省、主に統制経済畑を歩いた。
 
第二次世界大戦後、[[東京都]]経済局長のとき、[[安井誠一郎]]知事の推挙により[[1948年]]警視総監に就任する。同年[[11月22日]]には[[上野恩賜公園|上野公園]]を視察中[[男娼]]に取り囲まれ殴打されるという椿事が起きる。在職中は一貫して左翼運動について強い姿勢で取り締まりを行い、[[東大ポポロ事件]]では治安目的の警察官の大学内への立ち入りは当然と発言するなど市民的自由尊重の点で大きな問題を残した。その一方で、第一線の老刑事や婦人警官を総監室へ招いて苦労話を熱心に聞くなどし、「人情総監」と親しまれる一面もあった。
 
また、戦後の警察改革で創設された[[自治体警察_(旧警察法)|自治体警察]]制度には擁護の姿勢を貫き、[[警察庁]]への一本化を図ろうとする[[警察法]]改正に反対した。[[1954年]]、警察法改正が強行採決されたのを受け総監を辞任。1月2日の[[二重橋事件]](16人死亡)の当日に、管轄地を離れ箱根に行っていたと国会で批判されていた。その後[[内閣官房副長官]]を務めた後([[1955年]]-[[1957年]])、[[1958年]][[第28回衆議院議員総選挙]]に旧東京1区から[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]公認で立候補し当選、以後6回連続当選を果たした。[[水曜会 (自民党)|石井派]]に所属し、通産政務次官、外務政務次官を歴任、また[[日本武道館]]理事長も努めた。