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[[愛媛県]][[越智郡]][[波方村]](現・[[今治市]])に、魚問屋の長男として生まれる。[[愛媛県立今治西高等学校|旧制愛媛県立今治中学校]]を卒業後、商社勤務を経て、1920年、[[第一高等学校 (旧制)|旧制第一高等学校]]に進学。一高在学中に、社会主義思想に触れ、社会主義運動に身をささげる決意をした。1923年に[[東京大学|東京帝国大学]]経済学部に進学。学内で、学生自治権拡大運動や[[関東大震災]]の被災者救援運動などを組織した。
 
1926年、東大卒業後、日本労働総同盟(総同盟)に就職。以後、労働運動の指導に従事し、1934年の第18回国際労働会議・第1回アジア労働組合会議には日本労働代表として参加した。1936年には、全日本労働総同盟本部総主事となるが、戦争政策の進行に伴って、1941年に日本の労働組合が[[大日本産業報国会]]に集約されると、その中央本部文化部副部長に就任した。しかし、イデオロギーを理由に3ヶ月で追放され、戦時中は労働運動から身をひいていた。
 
戦後、鉱山労働者の組織化に着手し日本鉱山労働組合会長となる。1951年日本労働組合[[第23回衆議院議員同盟選挙|1947年の主事に就任。また、選挙]]で東京第4区から[[日本社会党]]公認で衆議院議員に立候補し、当選3回。1951年に総同盟が[[日本労働組合総評議会|総評]]参加をめぐって分裂し、総同盟刷新強化派で総主事に就任する
 
衆院議員は途中1回の落選を挟んで3期務め、1951年の日本社会党分裂以後は右派社会党に属し中央執行委員をつとめていになったが、[[1954年]][[9月26日]]、遊説先の[[北海道]]から[[東京]]への帰途、[[冨吉榮二]]と共に乗船した[[青函連絡船]][[洞爺丸]]が折からの台風に遭遇し、[[函館市]]七重浜で沈没する[[洞爺丸事故]]で遭難死({{没年齢|1901|3|1|1954|9|26}})。遺された妻・君子は洞爺丸事故遺族会の会長を務め、衆議院議員を1期務めた。
 
== 参考文献 ==