「井伊直澄」の版間の差分

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| 氏族 =
| 父母 = 父:[[井伊直孝]]
| 兄弟 = [[井伊直滋|直滋]]、[[井伊直寛 (彦根藩)|直寛]]、[[井伊直縄|直縄]]、'''直澄'''
| 妻 =
| 子 = [[中野宣明]]<br/>養子:'''''[[井伊直興|直興]]'''''、''香雲院([[阿部正武]]室)''<br/>''御辰([[中野清三]]室)''
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'''井伊 直澄'''(いい なおずみ)は、[[江戸時代]]の[[大名]]で、第3代[[彦根藩]]主。幕府では[[寛文]]8年([[1668年]])から延宝4年(1676年)まで[[大老]]([[大政参与]])も務めた。[[井伊直孝]]の5男。官位は[[従四位|従四位下]][[近衛府|左少将]]、[[掃部寮|掃部頭]]。
 
== 生涯 ==
本来であれば直孝の長男の[[井伊直滋|直滋]]が世子となるはずであったが、父と折り合いが悪く、[[万治]]元年([[1658年]])に廃嫡され遁世した。同年、4男の[[井伊直縄|直縄]]が世子とされたが同年に逝去5男の直澄が世子と定められた。翌万治2年([[1659年]])、直孝が亡くなったためその跡を継いで彦根藩主となった
 
[[寛文]]8年([[1668年]])11月19日には大老に就任した。延宝4年(1676年)1月3日、大老在職中に死去した。[[享年]]52。「子供が生まれても後継ぎにしてはならない」との直孝の遺言を守り、正室を娶らず、兄・直縄の子で甥に当たる[[井伊直興|直興]]を養子として家督を継がせた。側室との間に子供はいたが、彼は家臣の分家に入って[[中野宣明]]と名乗った<ref>彦根藩家老中野助大夫家の分家中野平助家を興して1,000石の家系となった。[[山上降太]]『元禄・正徳期の御大老 井伊直興と直該』([[郁朋社]]、2009年)P53 - P54</ref>。
 
== 人物 ==
* 穏やかながら機知に富んだ性格であった。ある日、[[徳川光圀]]の伴として[[徳川家綱]]の茶会に出席したことがあったが、家綱は茶を点てるのに不慣れで、一人では飲みきれない量を光圀に出してしまった。光圀も将軍直々じきじきに出された茶を残すわけにいかず、困り果てた。そこで直澄が進み出て光圀に「上様がお点てになったお茶など頂戴する機会はなかなかございません。もしお飲み残しでしたら是非拙者にも賜れないでしょうか」と申し出たため、家綱も「余ればそのまま直澄へ」と言ってその場が収まったという。
* 江戸で浪人が[[大名屋敷]]の門前で「[[切腹]]するから介錯しろ」と脅して金をねだる事例が多発したことがあり、井伊家の門前にもやってきたが、直澄は平然と「したいと言うのなら切腹すれば良い」と答え、奥に招き入れ、食事をさせた後に切腹させた。これにより切腹騒動は鎮静化したという。なお、このエピソードが元になり、映画『[[切腹 (映画)|切腹]]』が作られている(原作は[[滝口康彦]]の小説)。
* 戦乱で灰燼に帰していた[[青岸寺]]([[滋賀県]][[米原市]])を[[慶安]]3年([[1650年]])再興している。また父直孝に恩義を感じ、供養のため高さ8mほどの石造七重層塔を[[琵琶湖]]の[[多景島]]に建てている。
* 大老在任中に、[[江戸]]の市中を騒がせた[[浄瑠璃坂の仇討]]が起きている。仇討を果たした一党は自害せずに、幕府に出頭して裁きを委ねて来た。これは徒党を組んでの仇討であり、厳罰必至の裁定が下るところでありながら、大老であった直澄が死一等を免じて遠島流罪とした。さらに数年後には恩赦を与えて、仇討の面々を彦根家中に召し抱えた。この事件は[[元禄赤穂事件]]と似た点が多々あり、[[赤穂浪士]]たちが事前に参考にしたとされる。
* 俳人の[[森川許六]]は直澄の家臣であった。