「浅井樹」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Okapia2 (会話 | 投稿記録)
全体に加筆・整理、出典を強化
30行目:
|選出方法 =
}}
'''浅井 樹'''(あさい いつき [[1971年]][[12月14日]] - )は、[[富山県]][[富山市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[内野手]]、[[外野手]])、野球指導者。{{by|2007年}}から[[広島東洋カープ]]のコーチを務めている
 
== 来歴・人物 ==
=== プロ入り前 ===
[[富山県立富山商業高等学校|富山商業]]では2年夏、3年夏に甲子園に出場するがいずれも1回戦で敗退。[[1989年]][[プロ野球ドラフト会議|ドラフト]]6位で[[広島東洋カープ]]に入団し、1年目はアメリカに野球留学。入団当初は守備に課題があったことに加え、[[前田智徳]]や[[江藤智]]、[[緒方孝市]]などの台頭もあり、入団から5年間で1軍出場が2試合と、ほとんどど1軍に定着することができなかった。
父とのキャッチボールをきっかけに[[野球]]を始め、小学校3年生の時に少年野球団に入った<ref name="base_20020708_64">坂東啓汰「新野球浪漫 男たちの詩 9回 フラッシュの嵐 浅井樹 レギュラーになるんだという気持ちがなくなったらやってられない」『週刊ベースボール』、2002年7月8日号、P.64</ref>。[[富山市立奥田中学校|奥田中学]]では1年生の時に[[投手]]となったが、2年生から[[外野手]]を務めた<ref name="base_20020708_64"/>。[[富山県立富山商業高等学校|富山商業]]に進むと1年夏からベンチ入りし、[[全国高等学校野球選手権富山大会|県大会]]決勝では途中出場したものの[[進藤達哉]]を擁する[[富山県立高岡商業高等学校|高岡商]]に敗れている<ref name="base_20020708_64"/>。
 
1年秋から[[中堅手]]のレギュラーに定着し、2年夏に[[第70回全国高等学校野球選手権大会|選手権大会]]に出場して初戦で[[平良幸一]]を擁する[[沖縄県立沖縄水産高等学校|沖縄水産]]に敗れた<ref name="base_20020708_64"/>。3年夏も[[第71回全国高等学校野球選手権大会|選手権大会]]に出場して1回戦で敗退したが、この試合で[[本塁打]]を放ったことが良い思い出になったという<ref>朝日新聞、2009年1月29日付朝刊、富山地方面、P.23</ref>。俊足巧打の外野手として注目され、[[1989年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|同年のドラフト会議]]前には[[横浜ベイスターズ|大洋]]が[[ドラフト外入団|ドラフト外]]で獲得の意志を示したほか、[[社会人野球]]の[[日本アイ・ビー・エム野洲硬式野球部|IBM野洲]]から内定を得ていた<ref name="base_20020708_65">『週刊ベースボール』、2002年7月8日号、P.65</ref>。しかしドラフトで[[広島東洋カープ|広島]]から6位で突然の指名を受け、大洋からは社会人へ進むことを勧められたが自身の意志で広島への入団を決めた<ref name="base_20020708_65"/>。契約金と年俸はそれぞれ2,500万円、360万円(いずれも推定)だった<ref name="base_20020708_67">『週刊ベースボール』、2002年7月8日号、P.67</ref>。
[[1995年]]7月1日の[[読売ジャイアンツ]]戦でプロ初本塁打を含む2本の本塁打を放ったのを機に1軍に定着し始める。同年は打率.303、翌年は.339の高打率をマークするなどの活躍を見せ、以降は左の[[代打]]の切り札として通算代打率3割を超す成績を残した。右の代打の切り札[[町田公二郎]]と共に形成する左右代打コンビは他球団からも恐れられ、全盛期が同時期だったことから「浅井と町田は他球団なら主軸を打てる」とまでいわれた。4割近い[[得点圏打率]]を残し、先発が右投手の場合は3番でスタメンを任されることも多かった。一般的にはパワーヒッターという印象が強いが、過去には1番や2番を打ったこともある。
 
=== プロ野球選手時代 ===
[[2003年]]に[[金本知憲]]が[[阪神タイガース]]に移籍したことにより、それまで不動とされてきた外野の一角を担う候補の1人に数えられたが、[[森笠繁]]の打撃の向上や[[2004年]]に[[嶋重宣]]がライトの定位置を確保してからは出場機会が減った。
プロ1年目の{{by|1990年}}は[[キャンプ_(日本プロ野球)|春季キャンプ]]で同期の[[前田智徳]]の打撃技術の高さに衝撃を受けた<ref name="base_20020708_65"/>。同年は[[千代丸亮彦]]、[[水沢英樹]]、[[前間卓]]とともに[[パイオニアリーグ]]の{{仮リンク|ゲートシティ・パイオニアーズ|en|Pocatello Giants}}に派遣され、58試合に出場した<ref>[http://www.baseball-reference.com/minors/player.cgi?id=asai--001its baseball reference.com マイナーリーグ成績]</ref>。1つのプレーに対して複数の考えがあるとわかり、視野が広がったという<ref name="base_20020708_66">『週刊ベースボール』、2002年7月8日号、P.66</ref>。帰国後は[[広島東洋カープ_(ファーム)|二軍]]で打撃コーチの[[内田順三]]らの指導を受けて猛練習を重ね<ref name="base_20020708_66"/>、4年目の{{by|1993年}}に一軍初出場を果たす。
 
{{by|1995年}}は7月1日の対[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦でプロ初本塁打を含む2本塁打・3打点の活躍を見せ<ref name="base_20020708_66"/>、同年は一軍に定着して[[打率]].303の成績を残した。{{by|1996年}}は9月21日の対[[阪神タイガース|阪神]]戦で[[ファウルボール]]を打った際に右手[[有鈎骨]]を骨折して全治1ヶ月の重傷を負った<ref>朝日新聞、1996年9月21日付朝刊、P.23</ref>が、シーズン通算では.339の高打率をマークし、特に代打成功率は.453にも達した<ref name="base_20020708_64"/>。オフの契約更改では1,500万円増の年俸2,900万円(推定)で契約を更改している<ref>朝日新聞、1996年12月21日付朝刊、広島地方面</ref>。これらの活躍の一方で、当時は同年代の野手に[[前田智徳]]や[[金本知憲]]、[[緒方孝市]]、[[江藤智]]がおり、[[ルイス・ロペス (1964年生の内野手)|ルイス・ロペス]]も含めたレギュラーの層は厚く、ポジションを奪うことはできなかった<ref name="asahi_20060628">朝日新聞、2006年6月28日付夕刊、P.16</ref>。逆に、代打で結果を残したために代打の切り札に定着してしまうというジレンマもあった<ref name="asahi_20060628"/>。
[[2004年]][[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]権を取得した際、「選手である以上、他球団が自分に対してどういう評価をしているのか聞いてみたいという思いがある。だからFA残留を認めてほしい」と要請したが、球団側は契約金や年俸の不用意な高騰を招くので認められないという以前からの方針を固持した。結果、FA権は行使せず残留。[[2005年]]以降選手登録を[[外野手]]から[[内野手]]へ変更した。
 
{{by|1997年}}オフに、3年前の[[教育リーグ|黒潮リーグ]]で知り合った女性と結婚した<ref name="base_20020708_66"/>。{{by|1998年}}はロペスの退団もあり、[[町田公二郎]]や[[ティモニエル・ペレス]]と[[一塁手]]のレギュラーの座を争った<ref>朝日新聞、1998年3月17日付朝刊、P.17</ref>。7月には金本の欠場を受けて5番打者として起用され、本塁打を放つ活躍でこれに応えている<ref>朝日新聞、1998年7月8日付朝刊、P.25</ref>。同年は2年ぶりに100試合以上に出場し、自己最多の75安打を記録した。{{by|1999年}}は新監督の[[達川光男|達川晃豊]]が攻撃型の打線を試行し、4月6日の対阪神戦では2番打者として起用された<ref>読売新聞、1999年4月7日付朝刊、P.17</ref>。オフには欠場した江藤の代わりに[[セ・リーグオールスター東西対抗]]に出場している<ref>読売新聞、1999年11月10日付朝刊、P.16</ref>。前年の活躍でレギュラーに定着しかけていた<ref name="yomiuri_20000415">読売新聞、2000年4月15日付朝刊、P.27</ref>ものの、シーズンの打率は.235など成績は振るわず、契約更改では500万円減の年俸3,650万円(推定)で契約を更改した<ref>朝日新聞、1999年12月21日付朝刊、広島地方面</ref>。
2006年シーズンは6月末に[[メニエール病]]を発症したことと、[[マーティ・ブラウン]]監督の若手起用の方針で構想外になっていた。一時は「今季ユニフォームを脱ぐのは考えられない」と現役続行に強い意欲を見せていたが、球団サイドがその代打で培った勝負強さと野球理論を評価してコーチとしてチームに残るよう打診し、本人も了承した。[[2006年]][[10月14日]]に現役引退を表明、17年間の現役生活に終止符を打つ。引退試合となった現役最後の打席でセンター前ヒットを放った。
 
{{by|2000年}}は4月14日の対[[中日ドラゴンズ|中日]]戦で2本塁打5打点の活躍を見せるなど、好調なスタートを切った<ref name="yomiuri_20000415"/>。5月7日の対阪神戦では[[カート・ミラー]]からサヨナラ満塁本塁打を放っている<ref>読売新聞、2000年5月8日付朝刊、P.19</ref>。一塁手のレギュラーには5月に再入団したロペスが定着したが、故障した緒方に代わり外野手としてスタメンで起用された。8月には3試合連続本塁打を記録する<ref>朝日新聞、2000年8月18日付朝刊、P.10</ref>など、シーズン通算では自己最多の13本塁打、46打点の成績を残した。{{by|2001年}}は6月の対[[阪神タイガース|阪神]]戦で守備の際にフェンスに激突し、歩行が困難なほど右ヒザが腫れ上がったが、故障を隠して出場を続けた<ref name="base_20020708_66"/>。また、オフには富山県内の小学生340人を対象に、[[富山県岩瀬スポーツ公園]]で野球教室を開催している<ref>読売新聞、2001年12月17日付朝刊、富山地方面</ref>。
引退セレモニーでは「ぼくは、カープが大好きです。チームメイトもファンのみんなも大好きです。これからは、その大好きなチームと皆さんに、少しづつですけど、恩返しできるように約束します」と涙ながらに語った。同期入団の[[前田智徳]]も「17年間一緒にプレーしてきた浅井を最高の形で送り出したい」として、この試合で本塁打を含む4安打を放ち、苦楽を共にした仲間の引退に涙した。通算代打成績は489打数、154安打、8本塁打、93打点、打率.315。
 
{{by|2002年}}は代打を中心に打率.308の成績を残し、600万円増の年俸5,300万円(推定)で契約を更改した<ref>毎日新聞、2002年12月5日付朝刊、P.13</ref>。{{by|2003年}}は[[野村謙二郎]]の故障によって[[新井貴浩]]が[[三塁手]]を務める機会が増え、新井に代わる一塁手としてのスタメン起用に好調な打撃で応えた<ref>読売新聞、2003年6月24日付朝刊、広島地方面、P.24</ref>。{{by|2004年}}は6月11日の対巨人戦で、1点差に詰め寄られた9回に[[マット・ランデル]]から代打満塁本塁打を放っている<ref>読売新聞、2004年6月12日付朝刊、P.19</ref>。同年は[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]権を取得し、スタメン出場の機会を得るために移籍も検討したが、愛着のある広島で優勝を目指したいとしてFA権は行使せず残留した<ref name="asahi_20041119">朝日新聞、2004年11月19日付朝刊、広島地方面</ref>。シーズンではセ・リーグ歴代5位タイの代打で20打点を挙げている<ref name="npb_daida"/>。{{by|2005年}}から、選手登録を[[外野手]]から[[内野手]]へ変更した。
引退後はそのまま球団に残り、2軍打撃コーチに就任し、[[2010年]]から[[2012年]]までは1軍打撃コーチ、2013年から3軍統括コーチを務める。
 
{{by|2006年}}は6月末に[[メニエール病]]を発症し、監督の[[マーティ・ブラウン]]の若手起用の方針もあって<ref name="yomiuri_20061017">読売新聞、2006年10月17日付夕刊、P.3</ref>構想外になっていた。一時は現役続行に強い意欲を見せていたが、球団サイドがその代打で培った勝負強さと野球理論を評価してコーチとしてチームに残るよう打診し、本人も了承した。同年[[10月14日]]に現役引退を表明、17年間の現役生活に終止符を打った。引退試合となったシーズン最終戦の10月16日の対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]戦では7回に代打で出場し、センター前ヒットを放った<ref name="yomiuri_20061017"/>。引退セレモニーでは「ぼくは、カープが大好きです。チームメイトもファンのみんなも大好きです。これからは、その大好きなチームと皆さんに、少しづつですけど、恩返しできるように約束します」と涙ながらに語った。同期入団の前田も「17年間一緒にプレーしてきた浅井を最高の形で送り出したい」として、この試合で本塁打を含む4安打を放っている。
 
=== 現役引退後 ===
引退後は広島まま球団に残り、2軍打撃コーチに就任し、[[{{by|2010年]]}}から[[{{by|2012年]]}}までは1軍打撃コーチ、{{by|2013年}}から3軍統括コーチを務める。
 
== プレースタイル ==
いずれも1500安打、200本塁打以上を記録した[[前田智徳]]、[[金本知憲]]、[[緒方孝市]]が同時期に活躍していた事もあってレギュラーに定着できなかったが、他球団に入っていれば強打の[[外野手]]として活躍していただろうと言われる<ref name="base_20020708_66"/>。自身は1年間だけでも良いからレギュラーとして起用されたいと感じていたが、球団からはレギュラー陣と遜色ない実力を持つスーパーサブとして高く評価されていた<ref name="base_20020708_66"/>。夏場に強く、夏男とも呼ばれている<ref>朝日新聞、1998年7月16日付朝刊、P.27</ref>。
バッティングフォームは独特で、「一本足振り子打法」と称されたこともある。入団当初は一発狙いの豪快なスイングが持ち味だったが、代打のポジションに就いてからはホームランよりはむしろ状況に応じた巧打に徹することが多かった。センター返しや逆方向への流し打ちが上手く、器用な一面ももっていた。生涯現役では、同時期に代打として活躍した町田と同じく[[規定打席]]には1度も達したシーズンは無かったものの、勝負強さは折り紙つきで、シーズン打率3割を5度記録している。また、ピンチの局面やサヨナラの好機にも強く、通算代打本塁打10本のうちの5本がサヨナラ本塁打である(うち1本が満塁本塁打)。
 
右打者の[[町田公二郎]]とともに代打の切り札として長く活躍し、代打として通算打率.315(2012年現在、セ・リーグ歴代2位)<ref name="npb_daida">[http://www.npb.or.jp/cl//entertaiment/record/pdf/2012/15.pdf NPB セ・リーグ年度別代打成績(pdf)]</ref>、154安打(同2位)<ref name="npb_daida"/>、サヨナラ安打4本、93打点(同5位)<ref name="npb_daida"/>という傑出した成績を残している<ref name="asahi_20060628"/><ref name="mainichi_20061017">毎日新聞、2006年10月17日付夕刊、P.3</ref>。監督の[[山本浩二]]からは、ベンチに居るだけで相手を威圧できると評されていた<ref name="asahi_20060628"/>。球界屈指の勝負強さを誇り<ref name="asahi_20041119"/>、通算7本のサヨナラ安打を記録し、うち3本はサヨナラ本塁打だった<ref name="npb_sayonara">[http://www.npb.or.jp/cl/entertaiment/record/pdf/2010/07.pdf NPB セ・リーグ年度別サヨナラ試合勝敗表(pdf)]</ref>。
 
バットを高く構えて[[一本足打法|一本足]]でタイミングを取る、独特の[[打撃 (野球)|打撃フォーム]]だった<ref name="asahi_20060628"/>。入団当初は一発狙いの豪快なスイングが持ち味だったが、代打のポジションに就いてからはホームランよりはむしろ状況に応じた巧打に徹することが多かった。センター返しや逆方向への流し打ちが上手く、器用な一面ももっていた。
外野手登録されていた年がほとんどだったが、外野に加え一塁を守ることも多かった。[[一塁手|ファースト]]の守備は上手く、レギュラーとして年間を通して活躍すれば、[[ゴールデングラブ賞]]を獲れるといわれていた。外野守備では左翼・中堅・右翼全てのポジションに就いている。また走塁技術に難点はあったものの足は速く、[[2005年]]には途中出場ながらも3試合連続で[[盗塁]]を成功させ、ときには[[代走]]要員として起用されることもあった。また、[[1995年]]から[[2004年]]まで10年連続で[[三塁打]]を記録している。これはチームメイトでともに3度の[[最多盗塁 (日本プロ野球) |盗塁王]]の実績がある全盛期の[[緒方孝市]]や[[野村謙二郎]]でも達成していない記録である。
 
外野手登録されていた年がほとんどだったが、[[一塁手]]としての守備に定評があった<ref name="asahi_20060628"/>。また、[[2005年]]には途中出場ながらも3試合連続で[[盗塁]]を成功させ、ときには[[代走]]要員として起用されることもあった。また、[[1995年]]から[[2004年]]まで10年連続で[[三塁打]]を記録している。試合中にユニフォームの袖を短くまくりあげていた時期があったが、これは筋肉を見せることで投手を威嚇するためであった。この仕草はチームメイトの[[森笠繁]]や[[田村恵]]が真似ていた。
 
== 詳細情報 ==
156 ⟶ 165行目:
* '''6''' (1997年 - 2006年)
* '''82''' (2007年 - )
 
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
 
== 関連項目 ==
* [[富山県出身の人物一覧]]
* [[広島東洋カープの選手一覧]]
 
== 外部リンク ==
*[http://bis.npb.or.jp/players/51153881.html NPB 個人年度別成績]
 
{{広島東洋カープ}}