「松方正義」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Addbot (会話 | 投稿記録)
m ボット: 言語間リンク 25 件をウィキデータ上の d:q714039 に転記
編集の要約なし
63行目:
}}
 
'''松方 正義'''(まつかた まさよし、[[天保]]6年[[2月25日 (旧暦)|2月25日]]([[1835年]][[3月23日]]) - [[1924年]]([[大正]]13年)[[7月2日]])は、[[日本]]の[[武士]](薩摩藩士)、[[政治家]]、財政指導者。[[位階]]は[[従一位]]。[[勲等]]は[[大勲位菊花章頸飾|大勲位]]。[[爵位]]は[[公爵]]。[[幼名]]は'''金次郎'''。[[仮名 (通称)|通称]]は'''助左衛門'''。[[雅号|号]]は'''海東'''<ref>『朝日日本歴史人物事典』[[朝日新聞社]]、1994年が「海来」としているのは誤植。</ref>。
 
[[明治]]期の日本において[[内閣総理大臣]]を2度(第[[第1次松方内閣|4]]・[[第2次松方内閣|6]]代)務めるとともに大蔵卿、[[大蔵大臣]]([[第1次伊藤内閣|初]]・[[黑田内閣|第2]]・[[第1次山縣内閣|第3]]・[[第1次松方内閣|第4]]・[[第2次伊藤内閣|第6]]・[[第2次松方内閣|第8]]・[[第2次山縣内閣|第11]]代)を長期間務めて[[日本銀行]]を設立するなど、財政通として財政面で業績を残した。また、晩年は[[元老]]、[[内大臣府|内大臣]]として政局に関与し影響力を行使した。
89行目:
以降は[[大蔵省]]官僚として財政畑を歩み、内務卿大久保の下では[[地租改正]]にあたる。だが、財政方針を巡って大蔵卿[[大隈重信]]と対立する。当時は[[西南戦争]]の戦費の大半を[[紙幣]]増発でまかなったことなどから政府紙幣の整理問題が焦点となっていた。松方は大隈が進める[[外債]]による[[政府紙幣]]の整理に真っ向から反対したのである。その結果、[[伊藤博文]]の配慮によって内務卿に転出する形で大蔵省を去った。だが、[[明治十四年の政変]]によって大隈が失脚すると、[[参議]]兼大蔵卿として復帰する。
 
松方は財政家として、[[政府紙幣]]の全廃と[[兌換紙幣]]である[[日本銀行券]]の発行による[[紙幣整理]]、[[煙草税]][[酒造税]][[醤油税]]などの増税や政府予算の圧縮策などの[[財政政策]]、[[官営模範工場]]の払い下げ、などによって財政収支を大幅に改善させ、[[インフレーション]]も押さえ込んだ。ただ、これらの政策は深刻な[[デフレーション]]を招いたために「'''[[松方デフレ]]'''」と呼ばれて世論の反感を買うことになった。
 
=== 総理大臣として ===
{{Main|第1次松方内閣|第2次松方内閣}}
[[1891年]](明治24年)に[[第1次山縣内閣]]が倒れると[[大命降下]]を受けて総理大臣に就任した。しかし閣内の不一致や不安定な議会運営が続き、1年強で辞任に追い込まれた。その後[[第2次伊藤内閣]]を挟んで[[1896年]](明治29年)に再び松方に組閣の命令が下るが、懸案であった[[金本位制]]への復帰こそ成し遂げたものの、[[大隈重信]]率いる[[進歩党 (日本 1896-1898)|進歩党]]との連繋がうまくいかず、同じく1年数か月で辞任を余儀なくされた。このとき松方は衆議院を解散した直後に[[内閣総辞職]]しているが、日本憲政史上このような例は第2次松方内閣だけである
 
=== 晩年 ===
[[ファイル:Grave of Masayoshi Matsukata, in the Aoyama Cemetery.jpg|thumb|200px|[[青山霊園]]にある松方の墓]]
[[1902年]](明治35年)[[日本赤十字社]]社長に就任。また、[[栃木県]][[那須]](現在の[[那須塩原市]])に[[千本松牧場]]を開場。後に隣接して別邸(松方別邸)を造り、[[大正天皇|皇太子]]を招くなどの社交の場とした。[[1903年]](明治36年)から[[枢密院 (日本)|枢密顧問官]]。[[1917年]](大正6年)から[[内大臣府|内大臣]]を務めた。内大臣時代は[[宮中某重大事件]]・[[大正天皇]]の病気による[[摂政]]設置などの問題に遭遇した。
 
伊藤博文や[[山縣有朋]]らの死後は元老を主導する立場となり、[[加藤友三郎内閣]]の成立などに関与した。[[1924年]](大正13年)7月2日、[[呼吸不全]]により死去(89歳)。東京三田の自宅で[[国葬]]が執り行われた。[[墓所]]は[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]の[[青山霊園]]。
 
== 評価 ==
薩摩閥では[[黒田清隆]]が酒乱であり、[[西郷従道]]・[[大山巌]]は政治的野心に乏しく、松方は年齢、キャリアからすれば薩摩閥の中核となるべき人物であったが、財政面以外での政治手腕には欠けるところがあった(2度の内閣がともに閣内分裂が理由であっけなく倒れた)ために軽んじられており、それゆえ派閥をまとめることが出来なかったといわれる。また、薩長元勲の中では唯一勤皇志士としての活動歴がなく、維新後の功労で元老・公爵にまで立身した。
 
ただし、[[明治天皇]]からの信頼は絶大であり、松方財政においても、閣僚や元勲の反対の中、天皇から財政委任の詔勅を得、財政をすすめている。金本位制導入の際には、明治天皇から「導入の是非を巡る議論は難解でよくわからぬが、これまで松方が財政に関して間違ったことをやった例はなかったから導入を裁可する」とまで言われている。[[日露戦争]]の開戦に当たっては、消極派の伊藤・[[井上馨|井上]]らに反論し、積極的に開戦を主張、蔵相に自信がないとしても自分が補佐するから財政上の懸念は解決できると豪語し、元老会議を主導した。この功績が明治天皇から認められ、戦後異例の大勲位受章となった。
 
[[日清戦争]]の時には松方は前首相ながら無役であったが、西南戦争の戦費を基準に予算を立てようとした当時の首脳部を戒め「このような時には前例などにとらわれず、勝つ為にいくら必要かの見込みを立てて、それを工面する方法を考えるべき」と主張した。また、[[伊藤博文]]と[[井上馨]]が「富豪から『戦勝後に[[国債]]と引き替える』として献金を募る」という提案をしたのに対し、「善意で献金した人間が『所詮国債目当て』と白い目で見られる」「政情の変化で国債に引き替えられなくなったら政府が国民を欺いたことになる」として「いっそ最初から国債を売った方がよい」と述べ、井上と論争の末「松方の案がもっともだ」と井上に言わしめた。
 
== 人物 ==