「本多秋五」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
{{Normdaten|TYP=p|NDL=00012203|CINII=DA00330457|GND=144044986|LCCN=n/83/072188|VIAF=11220534}}
3行目:
 
== 経歴 ==
*1912年 四歳で母を喪う。
*[[第八高等学校 (旧制)|旧制第八高等学校]]、[[東京大学|東京帝国大学]]を卒業する
*1921年 [[愛知県立第五中学校]]入学、同人誌『朱雀』に参加。
*[[1946年]] - [[平野謙 (評論家)|平野謙]]、[[山室静]]、[[埴谷雄高]]、[[小田切秀雄]]、[[荒正人]]とともに雑誌『[[近代文学 (雑誌)|近代文学]]』を創刊
*1926年 [[第八高等学校 (旧制)|旧制第八高等学校]]に入学、[[東京大学平野謙 (評論家)|東京帝国大学平野謙]]と同級、のち[[藤枝静男]]を卒業す
*[[1965年]] - 『物語戦後文学史』で第19回[[毎日出版文化賞]](文学・芸術部門)を受賞
*1929年 [[東京大学|東京帝国大学]]文学部国文科に入学、マルクス主義に近づく。
*[[1969年]] - [[明治大学]]教授に就任
*1930年 ロシア革命記念日のデモに参加し検挙される。
*1932年 東大を卒業、卒論は「[[森鴎外]]研究」、大学院に進学する。
*1933年 検挙される。
*1934年 釈放され郷里に帰る。長兄について満州を訪問。
*1936年 上京し、[[逓信省]]電務局無線課に勤務。北川静雄の筆名を用いる。
*1937年 [[宮本百合子]]を訪問。[[トルストイ]]の『戦争と平和』に感銘を受ける。
*1938年 東京逓信局に転勤。吉田信の長女治子と結婚。
*1941年 役所を退職、「戦争と平和」論を書く。
*1943年 [[中央公論社]]嘱託となる。
*1944年 [[情報局]]嘱託となる。
*1945年 召集され名古屋の連隊に入るが敗戦。
*[[1946年]] - [[平野謙 (評論家)|平野謙]]、[[山室静]]、[[埴谷雄高]]、[[小田切秀雄]]、[[荒正人]]とともに雑誌『[[近代文学 (雑誌)|近代文学]]』を創刊
*1949年 初の著書『[[小林秀雄]]論』を刊行。
*1953年 [[新日本文学会]]の常任中央委員に選ばれる。
*1954年 『群像』に連載した『『白樺』派の文学』を刊行。
*1957年 中国訪問日本文学代表団に参加。
*1960年 『物語戦後文学史』を刊行。(その後『続-』が出る)
*[[1965年]] - 『物語戦後文学史』で第19回[[毎日出版文化賞]](文学・芸術部門)を受賞。平野の紹介で[[明治大学]]文学部専任講師となる。
*1966年 ソ連作家同盟の招きで平野らと訪ソ。
*[[1969年]] - [[明治大学]]教授に
*1978年 [[江藤淳]]との無条件降伏論争が始まる。
*[[1983年]] - 『古い記憶の井戸』で第34回[[読売文学賞]]を受賞
*[[1991年]] - 『志賀直哉』で[[毎日芸術賞]]を受賞
*2001年 - 脳出血で自宅にて死去。[[享年]]92
 
[[レフ・トルストイ|トルストイ]]、[[武者小路実篤]]、[[志賀直哉]]など、[[白樺派]]とその周辺の作家を論じた。1978年、日本の敗戦は無条件降伏ではなかったとする[[江藤淳]]とこれを支持する[[柄谷行人]]に反論し、[[無条件降伏論争]]を行った。
 
== 人間関係 ==