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== ドゥブロヴニクの言葉 ==
ドゥブロヴニクの公用語は[[1472年]]まで[[ラテン語]]が使用されていた。その後、ラグーサ共和国は公用語にラテン語と同系の[[ロマンス諸語]]の一種であるラグーサ方言の[[ダルマチア語]]を採用すること決め、議会での討議の場での[[スラヴ語派|スラヴ語]]の使用は禁止された。上流階級(Gospari)は自分たちの言葉を数世紀にわたって保持していたが、徐々に廃れていった。ラテン系の言葉が公用語として使われてはいたが、共和国のほとんどの地元住民はスラヴ語を使用していた。[[1698年]]のP. A. Tolstoj による記録に残されている。彼らは共和国に常に誇りを持っていたため、自分たちのことをラグーサ人を意味するラグーサン(Ragusan)、ラグセオス(Raguseos)と呼んでいた<ref name="jezik">{{hr icon}} [http://web.archive.org/web/20030820160429/http://www.hercegbosna.org/ostalo/jezik3.html Jezik, lingvistika i politika: Ilirski iliti slovinki jezik] {{リンク切れ|date=2010(200328}}20日時点の[[インターネット・アーカイブ|アーカイブ]])</ref>。[[ダルマチア語]]は市内で話されていたが、[[イタリア語]]も話されており[[ヴェネツィア語]]や[[トスカーナ方言]]の影響も強かった<ref>{{it icon}} {{cite web|url=http://xoomer.virgilio.it/histria/storiaecultura/testiedocumenti/tesiscaglioni/tesi.htm|title=La presenza italiana in Dalmazia, 1866-1943|year=1996|work=Tesi di Laurea|publisher=Facoltà di Scienze politiche - Università degli studi di Milano|last=Marzio|first=Scaglioni|archivedate=2010-02-17|archiveurl=http://www.webcitation.org/5nbG01IRn|accessdate=2010-02-17}}</ref>。
 
== 地区 ==