「ピリッポス5世」の版間の差分

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戦後、マケドニアとローマとの間で条約が結ばれるが、マケドニアは1000タレントの賠償金を支払わされ、息子デメトリオスは人質としてローマに送られた。その後はローマと親睦を深めスパルタと対立し、[[スパルタ王]][[ナビス]]がローマと戦った際にはローマ側を支援した。またピリッポス5世は、ローマとセレウコス朝の[[アンティオコス3世]]との対立にもローマ側として支援している。この支援の見返りとして、[[紀元前190年]]に[[スキピオ・アフリカヌス]]と[[スキピオ・アシアティクス]]がマケドニアを訪問した際に残りの賠償金を免除され、デメトリオスもローマの人質から解放された。
 
ピリッポス5世はその後、財政再建などマケドニア国内の再構築に着手する。しかしこれがローマの警戒心を促し、ペルガモンなどの近隣諸都市からの要請により、再びローマの内政干渉を受けてしまう。廃位を憂慮したピリッポス5世はバルカン半島の影響力を軍事、外交によって拡張しようとするが、親ローマ派になっていた息子デメトリオスによって阻害されてしまう。やがてローマよりマケドニア王への即位を促された弟デメトリオスと王位継承者である兄ペルセウスとの間で確執が起こり、ペルセウスにけしかけられたピリッポス5世はデメトリオスを処刑した。この件を深く悔やんだピリッポスは健康を害するようになり、1年後[[アンフィポリス]]にて没した。