「藤原山蔭」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
出典、関連項目補記
22行目:
'''藤原 山蔭'''(ふじわら の やまかげ)は、[[平安時代]]前期の[[公卿]]。[[越前国|越前]][[国司|守]]・[[藤原高房]]の次男。
 
== 生涯経歴 ==
[[仁寿]]4年([[854年]])の[[馬寮|左馬大允]]を振り出しに[[衛門府|衛門少尉]]を務めた後、[[天安 (日本)|天安]]2年([[858年]])3月に[[皇太子]]・惟仁親王の[[春宮坊|春宮大進]]に任ぜられ、同年11月の惟仁親王の即位([[清和天皇]])に伴い[[従五位|従五位下]]に叙せられる。
 
清和朝では天皇の側近として[[蔵人]]・[[近衛府|近衛少将]]を務める傍ら、[[備後国|備後]][[国司|権介]]・[[伊予国|伊予介]]・[[美濃国|美濃]]守と地方官を兼ねる。[[貞観 (日本)|貞観]]14年([[872年]])の[[太政大臣]]・[[藤原良房]]の没後に俄に昇進し、貞観15年([[873年]])[[正五位|正五位下]]、貞観17年([[875年]])[[従四位|従四位下]]・[[蔵人頭]]・[[近衛府|右近衛権中将]]に叙任される。
 
貞観18年([[876年]])に清和天皇が退位すると引退を決意するが、新帝・[[陽成天皇]]の慰留により引き続き出仕を続け、[[元慶]]元年([[877年]])に[[弁官|右大弁]]、元慶3年([[879年]])には従四位上・[[参議]]に叙任され公卿に列す。{{要出典範囲|また、清和上皇の[[崩御]]に至るまで、清和上皇の[[院司]]も務めていたと思われる|date=2009年10月}}。[[光孝天皇|光孝]]朝の[[仁和]]2年([[886年]])[[従三位]]・[[中納言]]に至る。
 
[[光孝天皇|光孝]]朝の[[仁和]]2年([[886年]])[[従三位]]・[[中納言]]に至るが、仁和4年([[888年]])2月4日に[[崩御#薨去|薨去]]した。[[享年]]65。最終官位は中納言従三位兼行[[民部省|民部卿]]。
 
== 人物 ==
[[四条流庖丁道|四条流庖丁式]]の創始者で知られている。これまで[[磐鹿六雁命]]の末裔[[高橋氏]]が[[庖丁式]]を執り行っていたが、光孝天皇の命により今までとは別の新たな庖丁式([[料理]])を編み出した。
 
また[[十九奉幣社]]のひとつ[[吉田神社]]<ref>『[[大鏡]]』藤原氏の物語,「藤原氏の氏神の由来、そして大原野・吉田神社の創始」</ref>と[[総持寺 (茨木市) |総持寺]]([[西国三十三所]]二十二番札所)<ref>「総持寺鐘銘」(『[[朝野群載]]』所収)</ref>を建立・創建している。
 
== 系譜==
50 ⟶ 51行目:
** 女子:[[藤原定方]]室
** 女子:[[雅望王]]室
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
== 参考==
*『今昔物語集』本朝仏法部・巻第19・第29話
 
== 関連項目 ==
*[[鉢かづき]]
 
== 外部リンク==