「レフ・シェストフ」の版間の差分

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== 思想と影響 ==
1898年に発表した『シェークスピアとその批評家ブランデス』は大胆な判断で注目を集め、[[1903年]]『ドストエフスキーとニーチェ(悲劇の哲学)』、[[1908年]]の[[アントン・チェーホフ|チェーホフ]]論『虚無よりの創造』などの作家論・哲学者論で、真理は理性を越えると主張し、あらゆる合理主義に対立した。このような傾向は、[[ニコライ・ベルジャーエフ|ベルジャーエフ]]がロシア的精神の特長として指摘した「ニヒリズム」、文化や文明の賜物を重視しない態度の延長であり、シェストフは実存主義に通じる「絶望の哲学」を展開した。この哲学は1890年代以降ロシアで高まった反写実主義の思潮に合致し、その[[レトリック]]を駆使した名文も相まって、象徴派作家に愛好された。亡命後の著作は第一次大戦後のヨーロッパに「不安の哲学」として迎えられ、[[D・H・ロレンス]]、[[アルベール・カミュ]]、[[ジョルジュ・バタイユ]]、[[アイザイア・バーリン]]、[[バンジャマン・フォンダーヌ]]などにも大きな影響を与えた。
 
日本では[[1934年]]に刊行された『悲劇の哲学』が発端となり、[[満州事変]]以後の思想弾圧と社会不安にさらされた知識人の間に、一時的な激しい流行を見た。[[河上徹太郎]]が当時のシェストフの主な紹介者であり、文壇において「シェストフ的不安」という造語が生まれた。